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  1. 足あと帳(1)
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俳句を拾う(2)

 投稿者:美保子  投稿日:2017年 5月23日(火)11時04分6秒
返信・引用
  「それにしても「物の見えたるひかり、いまだ心にきえざる中にいひとむべし」とは、いかにも俳句的である。近代文学論が無意識のうちに想定している十九世紀ヨーロッパ長編小説は、無論のこと、詩の分野で見ても中世叙事詩をはじめ抒情詩でも、「物の見えたるひかり、いまだ心にきえざる中に」などという瞬間芸的な定型詩論の当てはまるものは俳句を措いて世界のどこにもあるまいと思う。しかも、それがどちらかというと、「見えたる」などと受身的なのである。
 ここで思い出す言葉に、「俳句を拾ひに行く」というのがある。わたくしはこれを死んだ叔父から聞いたことがある。わたくしの叔父は植木屋で、一方、宝生居柳燕と称する村の宗匠でもあった。正しくは「ホツ句を拾いに出かけてくる」と叔父は使っていた。もう四十年以上昔になるが、当時いわゆる戦後文学、戦後詩に染まっていたわたくしは、そういう叔父のもの言いを何とも古くさく趣味的なものとして、やや軽侮の念をもって聞いていたが、その後徐々に改まって、俳句の本質に根ざした示唆の多い言葉として懐かしく反芻している。
「俳句を拾う」という言葉は、明らかに「人間作者」による「創作」という近代文学理念とは異なっている。俳句を「与えられたるもの」と見る見方で、そこには人間の「創作」活動を限定的に認識する思想がある。当然その相対には、わたくしが「造化」という言葉に盛り込もうとしている内容と類似のものが推測される。余所目にはやや牽強と映るかも知れないが、「俳句を拾う」-「物の見えたるひかり、いまだ心にきえざる中にいひとむべし」‐「俳句は造化の語る即刻の説話」とつながる関連が、わたくしの内では素直な形でできあがっているのである。
 ここでちょっと断っておくが、わたくしは俳句を文学概念の範疇から無理に外そうとしているわけではない。現在のいわゆる文学概念の中に箔付けのように嵌め込む必要を感じないだけである。俳句は作品がよければ、所属は何でもよい。」(仁喜)

お知らせとお礼
何度かここで俳人協会編『北海道吟行案内』について宣伝させていただきましたが、お蔭様で初版1000部を完売し、その後1000部が増刷されました。増刷分もすでに350部販売済みとのことです。小山草史さんを始め、協力していただいた方々に改めてお礼を申し上げます。本当にどうもありがとうございました!
 
 

俳句を拾う(1)

 投稿者:美保子  投稿日:2017年 5月15日(月)08時31分4秒
返信・引用
  「「俳句は造化の語る即刻の説話と考へてゐる」の「語る」には、俳句を生み出す最も根本的な主体を「造化」に置く考え方が籠められている。「語る」は、俳句作者の立場からは「聞く」に相当する語で、視覚的には「見る」、嗅覚的には「嗅ぐ」に当たる。謂わば五感を代表する語である。
 芭蕉の言葉を伝える『あかさうし』に、「物の見えたるひかり、いまだ心にきえざる中にいひとむべし」という一節がある。わたくしの言う「造化の語る即刻の説話」は、この「物の見えたるひかり」に近く、わたくしの「語る」は芭蕉の「見えたる」に等しい。芭蕉が「物の見えたるひかり」という時の「物の…ひかり」には「造化」の意識が働いている。言い切ってしまえば、この「物の…ひかり」は「造化のはたらき」であり、ある場合には「造化そのもの」でもある。「物の見えたるひかり、いまだ心にきえざる中に」と言う時、芭蕉は「物の…ひかり」を、見ようとすればいつでも見えるものとはけっして考えていない。それが「見えたる」である。無論「物の…ひかり」は、人間(俳人)が見ようと欲しなければ見えないものには相違ないが、むしろ天啓のごとく閃いて即刻に消えてしまうものである。言い換えれば与えられたるものの意識があり、これは人間(文学者)を最大の創作者と見る西欧風文学観とは明らかに異なるものである。」(仁喜)
 

「造化」について(3)

 投稿者:美保子  投稿日:2017年 5月 4日(木)11時59分51秒
返信・引用
  「次に、「造化」の内包する範囲であるが、これはもう一口に「森羅万象」と言っていい。いわゆる「人工」に対する「自然」は無論のこと、「人工」そのものもこれに含まれている。俳句でいえば叙景句はもちろん人事句もこれの範囲内である。高浜虚子の説いた「花鳥諷詠」の「花鳥」も「森羅万象」を含むものであるが、この「花鳥」という語も「造化」の具象的表現と見てよいであろう。
 ただ「造化」の語には、辞書的意味としても「‐その道理・それを行う神」とあるように、どことなく人為を超えたニュアンスが漂っている。
 ここからして、例えば宇宙ロケットのような人工の粋にしても、さらに大いなるものが人間をしてそれを作らしめたという認識を免れず、人間の能力に対する信頼は相対的に限定されざるをえない。
 ここに、人間の「創作」を最大に評価する西欧的な「文学」理念と、わたくしの理解する「俳句」との微妙な乖離が生ずる。」(仁喜)

sooshiさん、兼題と写真をどうもありがとうございます!
みどりが目に眩しいですね。
こちらもようやく春の陽気になり、桜が満開となりました。
天気のよいゴールデンウィークです。
 

晩春の山野

 投稿者:sooshi  投稿日:2017年 4月25日(火)10時30分16秒
返信・引用
  晩春の景をいくつか求めて近くの山野を歩きました。林間に蝮草と二輪草が自生していました。また別のところでは新しい巣箱が掛けられていました。

5月度泉例会の兼題 麦の秋・通し鴨・柿若葉
 

「造化」について(2)

 投稿者:美保子  投稿日:2017年 4月21日(金)08時37分50秒
返信・引用
  「ここでの「造化」の語義は、「天地自然(宇宙の運行)」(杉浦正一郎・宮本三郎)、「老荘思想における造化。万物を創造化育するもの。神または自然」(中村俊定)と註されているが、わたくしはこれらを踏まえつつ、芭蕉の精神を加味して、「霊力を有する天地自然そのもの、またはその産物」と理会している。
 ここで注意しておきたいのは、「造化」を単なる「人工」に対する「自然」の如く物質的にのみ見ていないことである。芭蕉の行文の中には、「造化にしたがひて四時を友と」するからこそ「見る處花にあらずといふ事なし。おもう所月にあらずといふ事なし」となる関連があり、花月を理会せぬ「夷狄を出、鳥獣を離れ」るためにこそ「造化にしたがひ造化にかへれ」とつながる脈絡が見て取れる。すなわち芭蕉の使う「造化」には、「風雅」に到る道筋の啓示があり、「風雅」に外れた魂への救済の信仰がある。わたくしが「霊力を有する天地自然そのもの、またはその産物」と理会する所以である。
 ただこう述べると、非常に汎神論的に聞こえるかも知れないが、実際の心情はそれほどでもない。ただ天地自然を物質的にのみ見る見方や、自然の中でリフレッシュするなどというよりは、もう少し霊的呪的に受け取っているのは事実である。これは後に触れる俳句の発想における「不思議」の感覚とも関連している。」(仁喜)

sooshiさん、
鎌倉吟行句会の様子を教えてくださり、どうもありがとうございます!
桜満開の中、虚子ゆかりの鎌倉での吟行句会とは羨ましい限りです。
こちらは日中の気温がまだ一桁で、本格的な春はまだまだ先です。
 

鎌倉吟行句会

 投稿者:sooshi  投稿日:2017年 4月15日(土)15時30分7秒
返信・引用 編集済
   4月13日春の吟行会が鎌倉で行われました。桜の満開の時期と重なり、参加者は皆思い思いの吟行先で桜を愛でたようです。句会場の鎌倉婦人子供会館は、虚子が最後の句会(昭和34年3月30日の句謡会)を開いたところで、「春の山屍をうめてむなしかり」の句を残しています。今の建物は建て替えられたものですが、会館のご厚意により、その句会の部屋の床の間に掛けられていた詩幅を、句会室の壁に掛けていただきました。この漢詩に応じて虚子は上記の句を詠んだそうです。集合写真はその詩幅を中心にして撮ったものです。
 句会は5句投句・5句選で、菅家瑞正さん・長沼利恵子さんの披講、点盛りのあと主宰の講評があり、特選は、「虚子の墓碑よりもとほくの落椿」(修誉さん) 「大仏の胎内に立つさくらかな」(利恵子さん)でした。
 (補遺) ・中村春堂の詩幅
            廟柏汀松映海門繁華
            事去夕陽暮蒼涼一片
            江山気中有英雄
            未死魂
 

鎌倉吟行句会

 投稿者:sooshi  投稿日:2017年 4月15日(土)14時52分20秒
返信・引用
  春の吟行句会が、鎌倉で行われました。例年になく桜の満開時期と重なり、参加者は皆思い思いの吟行先で桜に出会いました。句会場の鎌倉婦人子供会館は、虚子が最後の句会を行ったところで(今の建物は新築されたもの)<
 

「造化」について(1)

 投稿者:美保子  投稿日:2017年 4月14日(金)20時27分22秒
返信・引用 編集済
  「句集『樸簡』を上梓したところ、そのあとがきについて聞かれることが重なったので、この機会に少し述べてみたい。
あとがきは次の通りである。
「俳句は造化の語る即刻の説話と考えてゐる。俳人はその再話者である」
まず、「造化」の語であるが、辞書には、「①天地とその間に存在する万物を作り出し、育てること。また、その道理・それを行う神。「-の妙」。②神のつくった天地。自然」(『大辞林』)と出ている。
しかし、わたくしが直接的な拠り所としたのは、芭蕉の用法で、例えば『笈の小文』には次のように使われている。
「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其の貫道する物は一なり。しかも風雅におけるもの造化にしたがひて四時を友とす。見る處花にあらずといふ事なし。おもふ所月にあらずといふ事なし。像花にあらざる時は夷狄にひとし。心花にあらざる時は鳥獣に類す。夷狄を出、鳥獣を離れて、造化にしたがひ造化にかへれとなり」(仁喜)

泉のいずみさん、

桜の写真どうもありがとうございます!そちらはもう桜は散り始めたんですね。
こちらは、昨日は桜吹雪ならぬ、本当の吹雪で参りました。車のタイヤを夏タイヤに替えていたので、恐る恐る運転しました。
 

 投稿者:泉のいずみ  投稿日:2017年 4月 9日(日)10時42分58秒
返信・引用
  少し前ですが、清明の日の新宿御苑の桜です。
この日は、あたたかで、おだやかで、絶好のお花見日和でした。(私は仕事でしたが…)
週末の雨と風で、今は満開の桜も散り始めています。
テレビのCMで、嵐の二宮君が「さまざまの事思ひ出す桜かな 芭蕉」を紹介しているので、
この句の認知度が全国的に高まったのではないでしょうか。
 

俳句の鑑賞(3)

 投稿者:美保子  投稿日:2017年 4月 3日(月)14時06分46秒
返信・引用
  「ここで思い出すのは、句会における石田波郷の評である。それはほとんどが「面白い」「面白くない」で済んでいた。当時それをわたくしは潔さの魅力として憧憬の目で眺めていたが、じつはそれ以上内容に亘って多言を要するような句は、それだけですでに評するに足りないものであったことに、今にして気がつくのである。

 辛崎の松は花より朧にて

についても、芭蕉自身「我はただ花より松の朧にて、おもしろかりしのみ」「予が方寸の上に分別なし。…只眼前なるは」と言っている。
 意味に凭りかからない俳句、散文訳鑑賞者を困らせる俳句を作ろう。「句に意味を持たせるな」。もっともっと押し黙ろう。黙っていて、風格のある句が作りたい。」(仁喜)

sooshiさん、
写真と兼題どうもありがとうございます。
そちらはちょうど桜が満開のころでしょうか。
こちらはようやく蕗の薹が出てきました。この時期、季節の違いをつくづく感じます。
 

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