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スレッド一覧

  1. 足あと帳(1)
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泉のつどい

 投稿者:美保子  投稿日:2017年 9月22日(金)11時08分42秒
返信・引用 編集済
  泉のつどい北海道吟行がいよいよ来週になりました!
来週半ばから気温がぐんと下がり、雨も降りそうです。
現時点で28、29、30日の吟行地の天気予報は、最高気温17~19℃、最低気温10~12℃で、曇り一時雨または晴れのち雨といったすっきりしない天気のようです。
本州から来られると、かなり寒く感じると思いますので、どうぞ暖かくしてお越しください。また、フットパス(草地)を歩きますので、歩きやすい服装、靴でお越しください。
それでは、楽しみにお待ちしています!
 
 

俳句は立句(2)

 投稿者:美保子  投稿日:2017年 9月 9日(土)21時42分47秒
返信・引用
  「二つめは、俳句は発句の独立したものである、ということである。
 言うまでもなく発句は連句の第一句、立句のことであるが、発句には季語と切字を用いるきまりがあり、他の平句にはそのきまりがない。
 連句との関連で言えば、平句も俳句の一つには違いないが、季語・切字の厳格さを間に置いた場合、発句と平句には計りきれないほどの開きがある。俳句は発句の独立したものという言葉には、季語・切字に対する絶対尊重の思想がこめられている。
 それと同時に、等閑視してはならないものに発句と立句としての尊厳がある。
「発句は百韻の初に候へば、如何にも長高く幽玄に打ひらめに無きやうに仕候。発句は切字と申事入候はで叶はず候。其切字なく候へば平句に相聞こえあしく候。四季の外、雑の発句と申事は無御座候」(『至宝抄』)
 ここには発句に求められる性格として「長高く幽玄」であることが明確に指摘されている。「泉
」俳句は、こういう発句性を重視しながら俳句活動を行っていこうとしているのである。
 したがって、季語や切字についても、ただ使うものだから使うという態度は許されない。それらは形としては平句にもないわけではないが、発句には格としてなければならないものだったのである。その原点を踏まえて「泉」俳句においても誇り高き季語と絶対的な季語遣い、また尊厳なる切字と動かすべからざる切字遣いが切に求められるのである。明確な認識なしの形骸化した季語や切字はむしろ俳句を瀆すものである。要は立句としての格を備えた俳句を作ろうということである。
 今月は確認事項を二点述べたが、じつは世間にはもっと気楽な見解の人もないわけではない、それを承知の上で「泉」俳句はあえてやや古風に、常に原点を確認しつつ、リゴリズムを通そうとしているのである。俳句の現在及び未来のために。」(仁喜)
 

俳句は立句(1)

 投稿者:美保子  投稿日:2017年 8月25日(金)08時55分24秒
返信・引用
  「今回は、次の二つのことを確認しておきたい。
 一つは、俳句は文語定型詩である、ということである。
 文語とは文章語のことで口頭語に対するものであるが、現在一般には明治以前のいわゆる古典と称される著作物に用いられている言葉遣いを指している。
 定型とは音数配列に一定の枠のある形式で、自由形式に対するものである。
 要するに文語定型詩とは古風で面倒なものなのである。そして、それが俳句というものなのである。
 今なぜこんなことを述べるかというと、「泉」の内外を問わず俳句を安直に考え、極端な場合には短くててっとりばやく楽しめそうだからやってみる、という傾向がなきにしもあらずだからである。
 そういう人は、俳句は文語定型詩という原点をどう弁えているのだろうか。古風で面倒なものに立ち向かうという覚悟を、どの程度持ち合わせているのであろうか。
 そのあたりの認識が確かでないと、位の高さ、丈高い美、あるいは細み、簡潔さ、風雅の誠、さらには声調などの言葉で言われている「泉」俳句の目指す理念への理解が足りず、結果的に自作に対する評価が不十分との嘆きや不満を抱くことにもなりかねないのである。
 一人一人の投句者は自作の一句一句について、例えばここに挙げたような「泉」俳句の目指す美の理念に正対しているかどうか検証してもらいたい。あとはそれに対してどれだけ未熟であるか、あるいはその域に達してさらに自在になっているかの違いだけである。」(仁喜)
 

俳句はマイナー(3)

 投稿者:美保子  投稿日:2017年 8月11日(金)15時34分1秒
返信・引用
  「俳句と説話の共通項はいくつかあるが、その第一は世俗性である。現代詩の一つの到り着いた姿としてのヴァレリーやエリオットの作品の非世俗性を指摘すれば説明は不要と思うが、わたくしは俳句は世俗性から離れてはいけないものだと考えている。
 現在、俳句人口が何百万か知らないが、一国にこれほど詩人のいる国が他にあるだろうか。それは日本人の質の高さではなく、俳句の世俗性によるものである。第二は、まさにそれゆえのマイナー性である。説話が国文学の研究対象になったのはごく近年のことに過ぎない。俳句についてはいわゆる「第二芸術」論がある。
 まとめて言えば、現代文学概念から零れ落ちた所にこそ俳句性はある。それを大切にしながら磨いていきたいという思いをフレーズ化したのが「造化の語る即刻の説話」である。所詮は「高悟帰俗」であるが、俳句は俗に執しつつ精神の高さを追求する宿命を負っている。その宿命に歯ぎしりしながら、これを愛しつづけるのが、このフレーズを言うわたくしの心情である。」(仁喜)

sooshiさん、
兼題と写真をどうもありがとうございます。
こもろ日盛り俳句大会に行かれたんですね。きっと刺激的だったでしょうね。いつか行ってみたいなあと思っていますが、夏は北海道から出る気になれず、いつも遠くから眺めています。

本州は残暑が厳しいことと思いますが、どうぞ皆様夏バテなさらぬようご自愛ください。
 

こもろ日盛り俳句大会

 投稿者:sooshi  投稿日:2017年 8月 4日(金)21時49分44秒
返信・引用
  長野県小諸市でこもろ・日盛り俳句大会が開かれましたが、藤本主宰は選者のひとりとして又パネルディスカッションの論者として参加されました。小諸は虚子が戦時中疎開していた地で、これにちなんで俳句大会が開かれており今年は九回目でした。パネルディスカッションのテーマは「俳句と地名Ⅱ」、論者が自身の地名の入った句について述べ合いました。主宰は「はればれと佐渡の暮れゆく跣足かな」の句の詠まれた地と推敲の過程などを説明されました。
二枚目の写真は吟行地のひとつ真楽寺の神代杉で幹に落雷のあとが見られます。
 

暑中お見舞い

 投稿者:sooshi  投稿日:2017年 7月24日(月)09時34分2秒
返信・引用
  梅雨も明けましたが、各地で豪雨と出水の被害が出ております。皆様のところはいかがですか。被災された地方の方々にお見舞い申し上げます。
泉例会は八月、休会となります。次回は立秋も過ぎていることから、兼題も秋の季語となっております。

兼題:紫苑・蓑虫・衣被
 

俳句はマイナー(2)

 投稿者:美保子  投稿日:2017年 7月23日(日)17時31分0秒
返信・引用
  「ここで、俳句における写生と説話との関連を指摘したら唐突であろうか。写生論はさまざまあり百人百態のようであるが、原点に戻って言えば、見ている対象を画面に忠実に写すスケッチである。これをわたくし流儀に言えば、造化の語る説話を書きとめていることになる。高浜虚子の有名な〈流れ行く大根の葉の早さかな〉について、虚子自身「その瞬間の心の状態を言えば、他に何物もなく、ただ水に流れて行く大根の葉の早さということのみがあったのである」と述べており、山本健吉もそれを「精神の空白状態に裏付けされていることを認めねばならぬ」とフォローしている。そしてこれを「写生句の代表作」と位置づけているのである。「精神の空白状態」では文学の創作はできない。これが一部の俳人からは指弾されているわけだが、これもわたくし流儀に言えば「造化の語る即刻の説話」の己れを空しうして耳を傾けている高浜虚子の伝聞の姿と映って愉快なのである。さらには「客観写生」の主張もある。いよいよ説話を伝聞する姿勢との関連は濃厚となる。
 ここでもう一度「俳句は造化の語る即刻の説話」という文言に立ち戻ると、わたくしはこの「説話」の語を一種の比喩として使っている。俳句は俳句以外の何物でもないが、あえて喩えれば説話かな、というぐらいの意味合いである。無論、俳句は小説ではなく、詩だという主張もわからないではないが、現代詩に括り込むとますます俳句が痩せてしまうのではないかという危惧から、誤解されやすいのを承知で説話と言っているのである。」(仁喜)
 

俳句はマイナー(1)

 投稿者:美保子  投稿日:2017年 7月 5日(水)11時47分52秒
返信・引用
  「前号のつづき、
「伝聞性」には二種類ある。ひとつは散文物語における伝聞性であり、『今昔物語集』『宇治拾遺物語』などに見られる中間に複数の伝達者を介する伝聞である。もう一つは、これがわたくしの述べている所の韻文俳句における伝聞性だが、造化から直接聞きとる一次的なもので中間に複数の伝達者を置かない。その際、その内容が俳人の創作(あるいは創作意識)でなく、造化の語る所を聞き取ること(あるいはその意識)において伝聞なのである。わたくしは「造化の語る即刻の説話」の「即刻」に、それを籠めたつもりである。俳壇で稀に俳句の無名性が言われることがあるが、俳句の無名性は前記散文物語における伝聞性に通じるところがあり、にわかに賛同できない。むしろわたくしの「即刻の説話」にあっては、聞き手(俳人)の全存在が重くかかわってくるのである。」(仁喜)

sooshiさん、
写真と兼題いつもどうもありがとうございます!
いつの間にかもうすっかり夏ですね!
 

夏半ば

 投稿者:sooshi  投稿日:2017年 6月28日(水)15時35分46秒
返信・引用
  はや夏半ばとなりました。水辺では半夏生草が繁っていました。

七月例会兼題: 片蔭・夕顔・落し文
 

俳句の伝聞性(3)

 投稿者:美保子  投稿日:2017年 6月25日(日)14時28分30秒
返信・引用
  「俳句のもつ「俳句性」について、山本健吉は「挨拶」「滑稽」「即興」を挙げているが、わたくしはこれに「伝聞」を加えたい気持ちで、「造化の語る即刻の説話」と言っている。俳句は詩だと言い、詩としての俳句などと主張している俳句作者もいるが、西欧の詩論はもちろん、その影響下に構築されている現代詩論においても、「挨拶」「滑稽」「即興」が「詩」の三要素などと主張している詩人は1人もなかろう。これらはいわば現在行き亘っている「詩概念」からは零れ落ちるものなのである。そして、そのはみ出してしまう所こそが「俳句性」だと山本健吉は言っているのである。わたくしはそれに「伝聞」を加えて賛同している。
 要するに、俳句は詩ではないのであり、詩になってしまっては俳句ではなくなってしまうのである。一行詩と俳句とは、同一ではない。」(仁喜)
 

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