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  1. 足あと帳(1)
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俳句の伝聞性(3)

 投稿者:美保子  投稿日:2017年 6月25日(日)14時28分30秒
返信・引用
  「俳句のもつ「俳句性」について、山本健吉は「挨拶」「滑稽」「即興」を挙げているが、わたくしはこれに「伝聞」を加えたい気持ちで、「造化の語る即刻の説話」と言っている。俳句は詩だと言い、詩としての俳句などと主張している俳句作者もいるが、西欧の詩論はもちろん、その影響下に構築されている現代詩論においても、「挨拶」「滑稽」「即興」が「詩」の三要素などと主張している詩人は1人もなかろう。これらはいわば現在行き亘っている「詩概念」からは零れ落ちるものなのである。そして、そのはみ出してしまう所こそが「俳句性」だと山本健吉は言っているのである。わたくしはそれに「伝聞」を加えて賛同している。
 要するに、俳句は詩ではないのであり、詩になってしまっては俳句ではなくなってしまうのである。一行詩と俳句とは、同一ではない。」(仁喜)
 
 

俳句の伝聞性(2)

 投稿者:美保子  投稿日:2017年 6月13日(火)09時34分38秒
返信・引用
  「日本の代表的な説話集には『今昔物語集』『宇治拾遺物語』等があるが、『宇治拾遺物語』の「序」には、宇治大納言隆国が、「もとどりをゆひわげて、をかしげなる姿にて、筵をいたにしきて、すずみゐはべりて、大なる内輪をもてあふがせなどして、往来の物、上下をいはず、よびあつめ、昔物語をせさせて、我は内にそひふして、かたるにしたがひて、おほきなるさうしに書れけり」とある。
 ここで留意天は「かたるにしたがひて…書れけり」である。これは今の言葉にすれば「聞き書き」で、この点では、『今昔物語集」の統一された文末形式「トナム語り伝へタルヤ」とも呼応する「説話」の「伝聞的性格」として共通している。
 また前号の「俳句を拾う」とは、「造化の語る」の「語る」、芭蕉の「物の見えてるひかり」の「見えたる」などにおいて照応している。こういう説話の伝聞性は、現代行き亘っている「作者」の「創作」性を重視する文学概念とはなじみにくいものである。
 断るまでもないが、新体詩以後の近代詩は西欧詩の翻訳から生まれたものであり、近現代小説また西欧文学概念を土台として進展してきたものである。要するに、明治以後百年少々のものにすぎない。俳句はそれ以前から存在するものであり、現在のような文学意識で作られたものでもない。したがってこれを受容するにしろ、拒絶するにしろ、現代行き亘っている文学概念からはみ出す所があるのは当然なのである。そして、そのはみ出しているところにこそ俳句の俳句たる所以があるとわたくしは考えている。また、俳句を「詩」だと言い切らない理由もここにある。」(仁喜)
 

俳句の伝聞性(1)

 投稿者:美保子  投稿日:2017年 6月 6日(火)21時44分3秒
返信・引用
  「句集『樸簡』のあとがきに書いた「俳句は造化の語る即刻の説話」というフレーズが俳人協会賞受賞と前後してひとり歩きを始め、なかには内容の検討抜きでこちらが秘かに赤面するほどの共感を示されて当惑している。
 そこでまず「説話」という語の説明だが、辞書には次のような説明が出ている。「作られた話に対して、民間に伝わる話。内容によって昔話・伝説・世間話などに分けたり、モチーフによって起源説話・神婚説話などと分類したりする。広くは神話を含めることもある」(『大辞林』)。
 ここで留意しておきたいのは、説話は1人の作者によって「作られた話」ではなく、「民間に」「伝わる話」だということである。これは前号「俳句を拾う」の、俳句を「拾いにゆく」「造化の語る」という思想と関連している。」(仁喜)

sooshiさん、
迫力のある写真をどうもありがとうございます!新緑もきれいですね。
そして兼題、どうもありがとうございます。今年もあっという間に夏至なんですねえ!
 

新緑を求めて

 投稿者:sooshi  投稿日:2017年 5月29日(月)20時26分51秒
返信・引用
  新緑が美しく映える季節となり、東北のまたぎの里を訪ねました。猟期はとうに過ぎていますので、資料館の熊の皮に思いを巡らせました。二枚目は残雪豊かな飯豊山系、三枚目はうわみず桜です。

追記 六月泉例会兼題;青嵐・郭公・夏至
 

俳句を拾う(2)

 投稿者:美保子  投稿日:2017年 5月23日(火)11時04分6秒
返信・引用
  「それにしても「物の見えたるひかり、いまだ心にきえざる中にいひとむべし」とは、いかにも俳句的である。近代文学論が無意識のうちに想定している十九世紀ヨーロッパ長編小説は、無論のこと、詩の分野で見ても中世叙事詩をはじめ抒情詩でも、「物の見えたるひかり、いまだ心にきえざる中に」などという瞬間芸的な定型詩論の当てはまるものは俳句を措いて世界のどこにもあるまいと思う。しかも、それがどちらかというと、「見えたる」などと受身的なのである。
 ここで思い出す言葉に、「俳句を拾ひに行く」というのがある。わたくしはこれを死んだ叔父から聞いたことがある。わたくしの叔父は植木屋で、一方、宝生居柳燕と称する村の宗匠でもあった。正しくは「ホツ句を拾いに出かけてくる」と叔父は使っていた。もう四十年以上昔になるが、当時いわゆる戦後文学、戦後詩に染まっていたわたくしは、そういう叔父のもの言いを何とも古くさく趣味的なものとして、やや軽侮の念をもって聞いていたが、その後徐々に改まって、俳句の本質に根ざした示唆の多い言葉として懐かしく反芻している。
「俳句を拾う」という言葉は、明らかに「人間作者」による「創作」という近代文学理念とは異なっている。俳句を「与えられたるもの」と見る見方で、そこには人間の「創作」活動を限定的に認識する思想がある。当然その相対には、わたくしが「造化」という言葉に盛り込もうとしている内容と類似のものが推測される。余所目にはやや牽強と映るかも知れないが、「俳句を拾う」-「物の見えたるひかり、いまだ心にきえざる中にいひとむべし」‐「俳句は造化の語る即刻の説話」とつながる関連が、わたくしの内では素直な形でできあがっているのである。
 ここでちょっと断っておくが、わたくしは俳句を文学概念の範疇から無理に外そうとしているわけではない。現在のいわゆる文学概念の中に箔付けのように嵌め込む必要を感じないだけである。俳句は作品がよければ、所属は何でもよい。」(仁喜)

お知らせとお礼
何度かここで俳人協会編『北海道吟行案内』について宣伝させていただきましたが、お蔭様で初版1000部を完売し、その後1000部が増刷されました。増刷分もすでに350部販売済みとのことです。小山草史さんを始め、協力していただいた方々に改めてお礼を申し上げます。本当にどうもありがとうございました!
 

俳句を拾う(1)

 投稿者:美保子  投稿日:2017年 5月15日(月)08時31分4秒
返信・引用
  「「俳句は造化の語る即刻の説話と考へてゐる」の「語る」には、俳句を生み出す最も根本的な主体を「造化」に置く考え方が籠められている。「語る」は、俳句作者の立場からは「聞く」に相当する語で、視覚的には「見る」、嗅覚的には「嗅ぐ」に当たる。謂わば五感を代表する語である。
 芭蕉の言葉を伝える『あかさうし』に、「物の見えたるひかり、いまだ心にきえざる中にいひとむべし」という一節がある。わたくしの言う「造化の語る即刻の説話」は、この「物の見えたるひかり」に近く、わたくしの「語る」は芭蕉の「見えたる」に等しい。芭蕉が「物の見えたるひかり」という時の「物の…ひかり」には「造化」の意識が働いている。言い切ってしまえば、この「物の…ひかり」は「造化のはたらき」であり、ある場合には「造化そのもの」でもある。「物の見えたるひかり、いまだ心にきえざる中に」と言う時、芭蕉は「物の…ひかり」を、見ようとすればいつでも見えるものとはけっして考えていない。それが「見えたる」である。無論「物の…ひかり」は、人間(俳人)が見ようと欲しなければ見えないものには相違ないが、むしろ天啓のごとく閃いて即刻に消えてしまうものである。言い換えれば与えられたるものの意識があり、これは人間(文学者)を最大の創作者と見る西欧風文学観とは明らかに異なるものである。」(仁喜)
 

「造化」について(3)

 投稿者:美保子  投稿日:2017年 5月 4日(木)11時59分51秒
返信・引用
  「次に、「造化」の内包する範囲であるが、これはもう一口に「森羅万象」と言っていい。いわゆる「人工」に対する「自然」は無論のこと、「人工」そのものもこれに含まれている。俳句でいえば叙景句はもちろん人事句もこれの範囲内である。高浜虚子の説いた「花鳥諷詠」の「花鳥」も「森羅万象」を含むものであるが、この「花鳥」という語も「造化」の具象的表現と見てよいであろう。
 ただ「造化」の語には、辞書的意味としても「‐その道理・それを行う神」とあるように、どことなく人為を超えたニュアンスが漂っている。
 ここからして、例えば宇宙ロケットのような人工の粋にしても、さらに大いなるものが人間をしてそれを作らしめたという認識を免れず、人間の能力に対する信頼は相対的に限定されざるをえない。
 ここに、人間の「創作」を最大に評価する西欧的な「文学」理念と、わたくしの理解する「俳句」との微妙な乖離が生ずる。」(仁喜)

sooshiさん、兼題と写真をどうもありがとうございます!
みどりが目に眩しいですね。
こちらもようやく春の陽気になり、桜が満開となりました。
天気のよいゴールデンウィークです。
 

晩春の山野

 投稿者:sooshi  投稿日:2017年 4月25日(火)10時30分16秒
返信・引用
  晩春の景をいくつか求めて近くの山野を歩きました。林間に蝮草と二輪草が自生していました。また別のところでは新しい巣箱が掛けられていました。

5月度泉例会の兼題 麦の秋・通し鴨・柿若葉
 

「造化」について(2)

 投稿者:美保子  投稿日:2017年 4月21日(金)08時37分50秒
返信・引用
  「ここでの「造化」の語義は、「天地自然(宇宙の運行)」(杉浦正一郎・宮本三郎)、「老荘思想における造化。万物を創造化育するもの。神または自然」(中村俊定)と註されているが、わたくしはこれらを踏まえつつ、芭蕉の精神を加味して、「霊力を有する天地自然そのもの、またはその産物」と理会している。
 ここで注意しておきたいのは、「造化」を単なる「人工」に対する「自然」の如く物質的にのみ見ていないことである。芭蕉の行文の中には、「造化にしたがひて四時を友と」するからこそ「見る處花にあらずといふ事なし。おもう所月にあらずといふ事なし」となる関連があり、花月を理会せぬ「夷狄を出、鳥獣を離れ」るためにこそ「造化にしたがひ造化にかへれ」とつながる脈絡が見て取れる。すなわち芭蕉の使う「造化」には、「風雅」に到る道筋の啓示があり、「風雅」に外れた魂への救済の信仰がある。わたくしが「霊力を有する天地自然そのもの、またはその産物」と理会する所以である。
 ただこう述べると、非常に汎神論的に聞こえるかも知れないが、実際の心情はそれほどでもない。ただ天地自然を物質的にのみ見る見方や、自然の中でリフレッシュするなどというよりは、もう少し霊的呪的に受け取っているのは事実である。これは後に触れる俳句の発想における「不思議」の感覚とも関連している。」(仁喜)

sooshiさん、
鎌倉吟行句会の様子を教えてくださり、どうもありがとうございます!
桜満開の中、虚子ゆかりの鎌倉での吟行句会とは羨ましい限りです。
こちらは日中の気温がまだ一桁で、本格的な春はまだまだ先です。
 

鎌倉吟行句会

 投稿者:sooshi  投稿日:2017年 4月15日(土)15時30分7秒
返信・引用 編集済
   4月13日春の吟行会が鎌倉で行われました。桜の満開の時期と重なり、参加者は皆思い思いの吟行先で桜を愛でたようです。句会場の鎌倉婦人子供会館は、虚子が最後の句会(昭和34年3月30日の句謡会)を開いたところで、「春の山屍をうめてむなしかり」の句を残しています。今の建物は建て替えられたものですが、会館のご厚意により、その句会の部屋の床の間に掛けられていた詩幅を、句会室の壁に掛けていただきました。この漢詩に応じて虚子は上記の句を詠んだそうです。集合写真はその詩幅を中心にして撮ったものです。
 句会は5句投句・5句選で、菅家瑞正さん・長沼利恵子さんの披講、点盛りのあと主宰の講評があり、特選は、「虚子の墓碑よりもとほくの落椿」(修誉さん) 「大仏の胎内に立つさくらかな」(利恵子さん)でした。
 (補遺) ・中村春堂の詩幅
            廟柏汀松映海門繁華
            事去夕陽暮蒼涼一片
            江山気中有英雄
            未死魂
 

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