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  1. 足あと帳(1)
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晩春の山野

 投稿者:sooshi  投稿日:2017年 4月25日(火)10時30分16秒
返信・引用
  晩春の景をいくつか求めて近くの山野を歩きました。林間に蝮草と二輪草が自生していました。また別のところでは新しい巣箱が掛けられていました。

5月度泉例会の兼題 麦の秋・通し鴨・柿若葉
 
 

「造化」について(2)

 投稿者:美保子  投稿日:2017年 4月21日(金)08時37分50秒
返信・引用
  「ここでの「造化」の語義は、「天地自然(宇宙の運行)」(杉浦正一郎・宮本三郎)、「老荘思想における造化。万物を創造化育するもの。神または自然」(中村俊定)と註されているが、わたくしはこれらを踏まえつつ、芭蕉の精神を加味して、「霊力を有する天地自然そのもの、またはその産物」と理会している。
 ここで注意しておきたいのは、「造化」を単なる「人工」に対する「自然」の如く物質的にのみ見ていないことである。芭蕉の行文の中には、「造化にしたがひて四時を友と」するからこそ「見る處花にあらずといふ事なし。おもう所月にあらずといふ事なし」となる関連があり、花月を理会せぬ「夷狄を出、鳥獣を離れ」るためにこそ「造化にしたがひ造化にかへれ」とつながる脈絡が見て取れる。すなわち芭蕉の使う「造化」には、「風雅」に到る道筋の啓示があり、「風雅」に外れた魂への救済の信仰がある。わたくしが「霊力を有する天地自然そのもの、またはその産物」と理会する所以である。
 ただこう述べると、非常に汎神論的に聞こえるかも知れないが、実際の心情はそれほどでもない。ただ天地自然を物質的にのみ見る見方や、自然の中でリフレッシュするなどというよりは、もう少し霊的呪的に受け取っているのは事実である。これは後に触れる俳句の発想における「不思議」の感覚とも関連している。」(仁喜)

sooshiさん、
鎌倉吟行句会の様子を教えてくださり、どうもありがとうございます!
桜満開の中、虚子ゆかりの鎌倉での吟行句会とは羨ましい限りです。
こちらは日中の気温がまだ一桁で、本格的な春はまだまだ先です。
 

鎌倉吟行句会

 投稿者:sooshi  投稿日:2017年 4月15日(土)15時30分7秒
返信・引用 編集済
   4月13日春の吟行会が鎌倉で行われました。桜の満開の時期と重なり、参加者は皆思い思いの吟行先で桜を愛でたようです。句会場の鎌倉婦人子供会館は、虚子が最後の句会(昭和34年3月30日の句謡会)を開いたところで、「春の山屍をうめてむなしかり」の句を残しています。今の建物は建て替えられたものですが、会館のご厚意により、その句会の部屋の床の間に掛けられていた詩幅を、句会室の壁に掛けていただきました。この漢詩に応じて虚子は上記の句を詠んだそうです。集合写真はその詩幅を中心にして撮ったものです。
 句会は5句投句・5句選で、菅家瑞正さん・長沼利恵子さんの披講、点盛りのあと主宰の講評があり、特選は、「虚子の墓碑よりもとほくの落椿」(修誉さん) 「大仏の胎内に立つさくらかな」(利恵子さん)でした。
 (補遺) ・中村春堂の詩幅
            廟柏汀松映海門繁華
            事去夕陽暮蒼涼一片
            江山気中有英雄
            未死魂
 

鎌倉吟行句会

 投稿者:sooshi  投稿日:2017年 4月15日(土)14時52分20秒
返信・引用
  春の吟行句会が、鎌倉で行われました。例年になく桜の満開時期と重なり、参加者は皆思い思いの吟行先で桜に出会いました。句会場の鎌倉婦人子供会館は、虚子が最後の句会を行ったところで(今の建物は新築されたもの)<
 

「造化」について(1)

 投稿者:美保子  投稿日:2017年 4月14日(金)20時27分22秒
返信・引用 編集済
  「句集『樸簡』を上梓したところ、そのあとがきについて聞かれることが重なったので、この機会に少し述べてみたい。
あとがきは次の通りである。
「俳句は造化の語る即刻の説話と考えてゐる。俳人はその再話者である」
まず、「造化」の語であるが、辞書には、「①天地とその間に存在する万物を作り出し、育てること。また、その道理・それを行う神。「-の妙」。②神のつくった天地。自然」(『大辞林』)と出ている。
しかし、わたくしが直接的な拠り所としたのは、芭蕉の用法で、例えば『笈の小文』には次のように使われている。
「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其の貫道する物は一なり。しかも風雅におけるもの造化にしたがひて四時を友とす。見る處花にあらずといふ事なし。おもふ所月にあらずといふ事なし。像花にあらざる時は夷狄にひとし。心花にあらざる時は鳥獣に類す。夷狄を出、鳥獣を離れて、造化にしたがひ造化にかへれとなり」(仁喜)

泉のいずみさん、

桜の写真どうもありがとうございます!そちらはもう桜は散り始めたんですね。
こちらは、昨日は桜吹雪ならぬ、本当の吹雪で参りました。車のタイヤを夏タイヤに替えていたので、恐る恐る運転しました。
 

 投稿者:泉のいずみ  投稿日:2017年 4月 9日(日)10時42分58秒
返信・引用
  少し前ですが、清明の日の新宿御苑の桜です。
この日は、あたたかで、おだやかで、絶好のお花見日和でした。(私は仕事でしたが…)
週末の雨と風で、今は満開の桜も散り始めています。
テレビのCMで、嵐の二宮君が「さまざまの事思ひ出す桜かな 芭蕉」を紹介しているので、
この句の認知度が全国的に高まったのではないでしょうか。
 

俳句の鑑賞(3)

 投稿者:美保子  投稿日:2017年 4月 3日(月)14時06分46秒
返信・引用
  「ここで思い出すのは、句会における石田波郷の評である。それはほとんどが「面白い」「面白くない」で済んでいた。当時それをわたくしは潔さの魅力として憧憬の目で眺めていたが、じつはそれ以上内容に亘って多言を要するような句は、それだけですでに評するに足りないものであったことに、今にして気がつくのである。

 辛崎の松は花より朧にて

についても、芭蕉自身「我はただ花より松の朧にて、おもしろかりしのみ」「予が方寸の上に分別なし。…只眼前なるは」と言っている。
 意味に凭りかからない俳句、散文訳鑑賞者を困らせる俳句を作ろう。「句に意味を持たせるな」。もっともっと押し黙ろう。黙っていて、風格のある句が作りたい。」(仁喜)

sooshiさん、
写真と兼題どうもありがとうございます。
そちらはちょうど桜が満開のころでしょうか。
こちらはようやく蕗の薹が出てきました。この時期、季節の違いをつくづく感じます。
 

春の水鳥

 投稿者:sooshi  投稿日:2017年 3月31日(金)22時35分45秒
返信・引用
   横浜三景園を歩いてきました。桜はやっと開花したところでしたが、池にはキンクロやハシビロなどの鴨が残っていました。また、ほほけた猫柳の先にアオサギが佇んでいました。

 また、3月26日東京例会(句会)の日にあわせて泉同人総会・泉賞・泉新人賞受賞式・祝賀会が例年通りの式次第で行われ無事終了しました。

4月例会の兼題 遍路・春眠・海棠
 

俳句の鑑賞(2)

 投稿者:美保子  投稿日:2017年 3月23日(木)16時26分21秒
返信・引用
  「名句鑑賞の例として、安藤次男の芭蕉句鑑賞を挙げる。その句意の扱い方は次の如くである。

 道のべの木槿は馬にくはれけり

 「槿花一日ノ栄」白氏に由来し、遍く知られた譬とも併て、無常観相の寓意句と受取られることを嫌ったか、『紀行』の初稿本には「眼前」と、定稿本絵巻には、改て「馬上吟」と、わざわざ前書を付けている。これは、どちらかによって解釈せよというのではない。状況の誤解をふせぐための念入な再補である。「けり」は、今まで意識していなかった事象に初めて気付いたことを表す詠嘆の助詞で「たり」とは違う。句意についてはそれ以上語るべきことはないが、それだけに、よけい、どんな興を訴えたかったのだろうと思う。本人に問うてみてもはかばかしい答は得られまい」
「句意についてはそれ以上語るべきことはない」と言いながら、その実何も述べていない。前書と切字に関する部分は一句の理解を助けるための解説で、句意の説明ではない。「馬に乗って歩いていると…」式の句意の散文訳は微塵もない。句意興趣は「本人に問うてみてもはかばかしいい答は得られまい」である。
そして一句に対する鑑賞批評は、
「云うなれば「偽よりいでて上手の名」を得た趣向の最たる例だ。そう考えれば、「馬にくはれけり」が俳諧になる。点睛の「けり」遣で、痛烈な笑がそこに生れる」
見事なものである。しかしそれもこれも、意味に凭りかからない芭蕉句がその淵源をなしている。」(仁喜)
 

俳句の鑑賞(1)

 投稿者:美保子  投稿日:2017年 3月15日(水)16時20分54秒
返信・引用
  「月々「泉集鑑賞」を書かなければならない関係上、各雑誌の俳句鑑賞欄には努めて目を通すようにしているが、名鑑賞といえるほどのものは概して少ないようである。
 最も多いパターンは、句意を長々と説明したあとに、感想を二言三言付け加える形なので、これではとても鑑賞とは言えない。
 もっとも名鑑賞は、名句と名鑑賞者が最もふさわしい時機に出会った時に初めて生み出されるもので、そうしばしばあるものではないのは当然のことである。
 小文でも、いまそれを問題にしているのではない。問題は、句意を長々と説明することである。否、句意を長々と説明できる俳句作品についてである。
 言うまでもなく、説明することは散文化することで、句意を長々と散文訳できる俳句とは、すなわち散文的な俳句の謂に他ならない。まして鑑賞と称して、その散文的内容に対して共感称揚するにおいては何をか言わんやである。
 ところが、これが意外に多いのである。句の内容に対する共感が優先してその月の秀句として月旦に取り上げられることが多く、”俳句は沈黙の文学””句に意味を持たせるな”という先達の教えが、とかく霞みがちなのである。」(仁喜)

紅さん、

いつも兼題と写真をどうもありがとうございます。
こちらもようやく雪が解けてきて、蕗の薹が見られるようになりました!
 

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