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スレッド一覧

  1. 足あと帳(1)
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次回、例会は、

 投稿者:  投稿日:2017年11月20日(月)15時54分33秒
返信・引用
  兼題なし。当季雑詠5句、持参です。
冬の季語です。
白の山茶花です。
 
 

続、黄葉。

 投稿者:  投稿日:2017年11月20日(月)15時37分25秒
返信・引用
  まんさくの黄葉。
仁喜先生の句。
まんさくの花盛りなる古葉かな。
は、花が咲く頃まで、葉がのこっているのです。
我が家のは、黄葉したら、北風に吹かれておちてしまいます。もう、そろそろ、裸木になるでしょう。そうすると、花芽が出来ているのか、よくわかります。

 

冬もみぢと返り花。

 投稿者:  投稿日:2017年11月19日(日)23時06分58秒
返信・引用
  泉のいずみさんの高尾山のもみぢに感動して。
脚力に自信がないので、近場の青しだれのもみぢと
日本しゃくなげの返り花。母の遺愛の木です。
 

もみじ

 投稿者:泉のいずみ  投稿日:2017年11月14日(火)23時58分9秒
返信・引用
  高尾山に登ってきました。
6号路のびわ滝コース~山頂~もみじ台~4号路のつり橋コースは、20年ぶりぐらいでした。
もみじ台の茶屋のなめこ汁は変わらぬ美味しさで、紅葉を眺めながらほっとしました。
私の写真では十分に伝わらないでしょうが、アップしてみます。

 

波郷の俳言(1)

 投稿者:美保子  投稿日:2017年11月 9日(木)17時04分41秒
返信・引用
  「俳句の歴史にはごく大雑把にみて、虚から実へ、晴から褻へ移り変わってきたと言える一面がある。
 虚はこの場合ごく便宜的に文学的な事象・情趣を指し、実は実生活上のそれらを指すものとしておく。また、晴・褻はこれも便宜的に儀式的・日常的程度の謂としておきたい。そして、虚実と晴褻は雅と俗として略対応する関係にある。
 さて、俳句の歴史が和歌・連歌・俳諧・発句・俳句という流れにあることはよく知られているが、虚実の面から見た場合大きな節目が二つある。俳諧と俳句である。ともにその節目で実の面が強く押し出され、流れが大きく褻の方向に変化している。
 雪ながら山もと霞むゆふべかな
  行く水遠く梅にほふ里
 河風にひと叢柳春見えて
一四八八(長享二)年、宗祇・肖柏・宗長による「水無瀬三吟」で、これは連歌である。
  詞のこりて意趣となりけん
 馬士は二尺があひにだうど落
  そこのきたまへみだけ銭あり
一六七五(延宝三)年、「談林十百韻」の一部で、雪柴・在色・松臼の順である。ここには意趣(喧嘩)、馬士、だうど(擬声語)、みだけ銭(ばら銭)などいわゆる俳言が使われており、これは俳諧である。
 こうして連歌と俳諧を比べてみると、一方の雅に対して他方は俗であり、虚実・晴褻がそれに対応しているのがわかる。そしてこの褻の容認、実への展開が江戸期の短詩型に空前の活力と人口の増大をもたらしたのである。」(仁喜)
 

基本季語(2)

 投稿者:美保子  投稿日:2017年10月20日(金)13時03分45秒
返信・引用
  「季題季語についてわたくしはてっとりばやく、異人種間の外交交渉に先立つ主要用語の概念規定のようなものと理解している。一つの語には意味内容のほかに情趣や連想が含まれている。その中で歴史の長い語には、それが使われて来た職業集団、血族集団等によって特有の情緒や連想の質と範囲が共通認識として定まってくる。そのうちの、和歌を主体とする文学集団によって季を中心に受けづがれたものが季題季語である。
 そしてこの「概念規定」は、和歌より連歌、連歌より発句と形式が小さくなるにつれて意識は逆に強まってきている。これは、ものが十分に言えなくなる分だけ暗黙の「共通認識」に依存する部分が増えざるをえないからである。これはいわばマイナス要因だが、それを逆手に取って、単なる補足以上の文学的効果を現出しようとしたのが、俳句史上に大きな足跡を残した先人たちの骨身を削る営為であったと見られるのである。
 高浜虚子が繰り返し「観念上のもの」「文学的見地」「俳句の季題」と言っているのも、まさにそのことであり、この特定集団内の「共通認識」による「概念規定」という特性が第二芸術と貶められたものなのである。しかしどうあろうと、それが俳句なのである。
 ただこういう「主要用語」は自ら数に制限のあるべきものである。季語における季語力の衰弱の一因は季語の氾濫にある。現状は伝統的な町並にマイカーが野放図に入り込んで来ている有様に似ている。芭蕉七部集を読んでいると、雑の句のかなりの数が現代では有季になってしまう。朝顔や花火の季を言う前に、数を絞った基本季語を考える必要がある。」(仁喜)
 

お世話になりました、本当にありがとうございました。

 投稿者:松田ナツ  投稿日:2017年10月12日(木)13時28分25秒
返信・引用
   「泉のつどい」北海道吟行の折には何かとお心配り頂き、愉しく満ち足りた思い出帰ることができました。本当にお世話になりありがとうございました。
これからは句を拝見するのも親しく愉しみです。
 とはいえ今…尽き症候群です(笑)。何とか末席についてゆきたいと思うのですが。
秋も深まります。みなさまどうぞお体大切に。
 

基本季語(1)

 投稿者:美保子  投稿日:2017年10月 5日(木)15時24分43秒
返信・引用
  「高浜虚子編『新歳時記』は昭和九年の刊行だが、その序文には季語に関する今日の課題がすでに指摘されており、聞くべき処が多い。
 その第一は、季題季語についての基本認識である。四季の区別について虚子は「春夏秋冬は観念上のもの」であり、どの期間をその季節とするかは「便宜上決めたもの」である。したがって「季を決定するについてはあくまで文学的見地から季題個々について事実・感じ・伝統等の重きを為すものに従って決定した。中には理屈上をかしいものもあり事実と違ってをるものもある」。要するに季題季語は文学上のものであり、場合により事実との整合性に反する場合もある。それでも、その合意の上に尊重されるのが季題季語というものだというのである。これはある意味では常識の範疇だが、文学と事実の区別のつきにくい向きにはどう映るだろうか。
 第二は、季題季語の取捨についてである。例えば「春の風・春の水」があるからといって対蹠的に「夏の風・夏の水」を入れたり、記念日や神社の祭礼等を無選択に取り入れるのは「季はあるには相違ないが俳句の季題としては不適当」だと言う。要は、季のある語はすべて季語というわけにはいかない。季題は他でもない「俳句の季題」だというのである。
 そして基本方針として次の各項を挙げている。
・俳句の季題として詩あるものを採り、然らざるものは捨てる。
・現在行われてゐるゐないに不拘、詩として諷詠するに足る季語は入れる。
・世間では重きをなさぬ行事の題でも詩趣あるものは取る。
(以下略)
「詩あるもの」「詩として諷詠するに足る季題」「詩趣あるもの」と、ここでも季題季語についての文学的認識を繰り返している。まことに妥当な基本方針である。」(仁喜)

先週は泉のつどい北海道吟行に遠くから沢山の方々にご参加いただき、本当にありがとうございました。お疲れ様でした。お蔭様で、札幌の泉の仲間も、いつも誌上でお名前しか知らない方々とお会いすることができて、とても喜んでいました。気が付くと、今回は写真を一枚も撮っておらず、残念ながらここにアップできません。「泉」12月号に掲載されますので、楽しみにしていてください。また、今回の吟行の様子は『俳句四季』12月号に発表されます。是非ご覧になってください。
 

唐辛子と桐の実

 投稿者:sooshi  投稿日:2017年 9月25日(月)17時06分19秒
返信・引用
  北海道吟行会楽しみにしています。

十月例会兼題  藪虱・鵙・夜寒

散策の途中で見たものを撮りました。
 

泉のつどい

 投稿者:美保子  投稿日:2017年 9月22日(金)11時08分42秒
返信・引用 編集済
  泉のつどい北海道吟行がいよいよ来週になりました!
来週半ばから気温がぐんと下がり、雨も降りそうです。
現時点で28、29、30日の吟行地の天気予報は、最高気温17~19℃、最低気温10~12℃で、曇り一時雨または晴れのち雨といったすっきりしない天気のようです。
本州から来られると、かなり寒く感じると思いますので、どうぞ暖かくしてお越しください。また、フットパス(草地)を歩きますので、歩きやすい服装、靴でお越しください。
それでは、楽しみにお待ちしています!
 

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