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スレッド一覧

  1. 足あと帳(1)
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暑中お見舞い

 投稿者:sooshi  投稿日:2017年 7月24日(月)09時34分2秒
返信・引用
  梅雨も明けましたが、各地で豪雨と出水の被害が出ております。皆様のところはいかがですか。被災された地方の方々にお見舞い申し上げます。
泉例会は八月、休会となります。次回は立秋も過ぎていることから、兼題も秋の季語となっております。

兼題:紫苑・蓑虫・衣被
 
 

俳句はマイナー(2)

 投稿者:美保子  投稿日:2017年 7月23日(日)17時31分0秒
返信・引用
  「ここで、俳句における写生と説話との関連を指摘したら唐突であろうか。写生論はさまざまあり百人百態のようであるが、原点に戻って言えば、見ている対象を画面に忠実に写すスケッチである。これをわたくし流儀に言えば、造化の語る説話を書きとめていることになる。高浜虚子の有名な〈流れ行く大根の葉の早さかな〉について、虚子自身「その瞬間の心の状態を言えば、他に何物もなく、ただ水に流れて行く大根の葉の早さということのみがあったのである」と述べており、山本健吉もそれを「精神の空白状態に裏付けされていることを認めねばならぬ」とフォローしている。そしてこれを「写生句の代表作」と位置づけているのである。「精神の空白状態」では文学の創作はできない。これが一部の俳人からは指弾されているわけだが、これもわたくし流儀に言えば「造化の語る即刻の説話」の己れを空しうして耳を傾けている高浜虚子の伝聞の姿と映って愉快なのである。さらには「客観写生」の主張もある。いよいよ説話を伝聞する姿勢との関連は濃厚となる。
 ここでもう一度「俳句は造化の語る即刻の説話」という文言に立ち戻ると、わたくしはこの「説話」の語を一種の比喩として使っている。俳句は俳句以外の何物でもないが、あえて喩えれば説話かな、というぐらいの意味合いである。無論、俳句は小説ではなく、詩だという主張もわからないではないが、現代詩に括り込むとますます俳句が痩せてしまうのではないかという危惧から、誤解されやすいのを承知で説話と言っているのである。」(仁喜)
 

俳句はマイナー(1)

 投稿者:美保子  投稿日:2017年 7月 5日(水)11時47分52秒
返信・引用
  「前号のつづき、
「伝聞性」には二種類ある。ひとつは散文物語における伝聞性であり、『今昔物語集』『宇治拾遺物語』などに見られる中間に複数の伝達者を介する伝聞である。もう一つは、これがわたくしの述べている所の韻文俳句における伝聞性だが、造化から直接聞きとる一次的なもので中間に複数の伝達者を置かない。その際、その内容が俳人の創作(あるいは創作意識)でなく、造化の語る所を聞き取ること(あるいはその意識)において伝聞なのである。わたくしは「造化の語る即刻の説話」の「即刻」に、それを籠めたつもりである。俳壇で稀に俳句の無名性が言われることがあるが、俳句の無名性は前記散文物語における伝聞性に通じるところがあり、にわかに賛同できない。むしろわたくしの「即刻の説話」にあっては、聞き手(俳人)の全存在が重くかかわってくるのである。」(仁喜)

sooshiさん、
写真と兼題いつもどうもありがとうございます!
いつの間にかもうすっかり夏ですね!
 

夏半ば

 投稿者:sooshi  投稿日:2017年 6月28日(水)15時35分46秒
返信・引用
  はや夏半ばとなりました。水辺では半夏生草が繁っていました。

七月例会兼題: 片蔭・夕顔・落し文
 

俳句の伝聞性(3)

 投稿者:美保子  投稿日:2017年 6月25日(日)14時28分30秒
返信・引用
  「俳句のもつ「俳句性」について、山本健吉は「挨拶」「滑稽」「即興」を挙げているが、わたくしはこれに「伝聞」を加えたい気持ちで、「造化の語る即刻の説話」と言っている。俳句は詩だと言い、詩としての俳句などと主張している俳句作者もいるが、西欧の詩論はもちろん、その影響下に構築されている現代詩論においても、「挨拶」「滑稽」「即興」が「詩」の三要素などと主張している詩人は1人もなかろう。これらはいわば現在行き亘っている「詩概念」からは零れ落ちるものなのである。そして、そのはみ出してしまう所こそが「俳句性」だと山本健吉は言っているのである。わたくしはそれに「伝聞」を加えて賛同している。
 要するに、俳句は詩ではないのであり、詩になってしまっては俳句ではなくなってしまうのである。一行詩と俳句とは、同一ではない。」(仁喜)
 

俳句の伝聞性(2)

 投稿者:美保子  投稿日:2017年 6月13日(火)09時34分38秒
返信・引用
  「日本の代表的な説話集には『今昔物語集』『宇治拾遺物語』等があるが、『宇治拾遺物語』の「序」には、宇治大納言隆国が、「もとどりをゆひわげて、をかしげなる姿にて、筵をいたにしきて、すずみゐはべりて、大なる内輪をもてあふがせなどして、往来の物、上下をいはず、よびあつめ、昔物語をせさせて、我は内にそひふして、かたるにしたがひて、おほきなるさうしに書れけり」とある。
 ここで留意天は「かたるにしたがひて…書れけり」である。これは今の言葉にすれば「聞き書き」で、この点では、『今昔物語集」の統一された文末形式「トナム語り伝へタルヤ」とも呼応する「説話」の「伝聞的性格」として共通している。
 また前号の「俳句を拾う」とは、「造化の語る」の「語る」、芭蕉の「物の見えてるひかり」の「見えたる」などにおいて照応している。こういう説話の伝聞性は、現代行き亘っている「作者」の「創作」性を重視する文学概念とはなじみにくいものである。
 断るまでもないが、新体詩以後の近代詩は西欧詩の翻訳から生まれたものであり、近現代小説また西欧文学概念を土台として進展してきたものである。要するに、明治以後百年少々のものにすぎない。俳句はそれ以前から存在するものであり、現在のような文学意識で作られたものでもない。したがってこれを受容するにしろ、拒絶するにしろ、現代行き亘っている文学概念からはみ出す所があるのは当然なのである。そして、そのはみ出しているところにこそ俳句の俳句たる所以があるとわたくしは考えている。また、俳句を「詩」だと言い切らない理由もここにある。」(仁喜)
 

俳句の伝聞性(1)

 投稿者:美保子  投稿日:2017年 6月 6日(火)21時44分3秒
返信・引用
  「句集『樸簡』のあとがきに書いた「俳句は造化の語る即刻の説話」というフレーズが俳人協会賞受賞と前後してひとり歩きを始め、なかには内容の検討抜きでこちらが秘かに赤面するほどの共感を示されて当惑している。
 そこでまず「説話」という語の説明だが、辞書には次のような説明が出ている。「作られた話に対して、民間に伝わる話。内容によって昔話・伝説・世間話などに分けたり、モチーフによって起源説話・神婚説話などと分類したりする。広くは神話を含めることもある」(『大辞林』)。
 ここで留意しておきたいのは、説話は1人の作者によって「作られた話」ではなく、「民間に」「伝わる話」だということである。これは前号「俳句を拾う」の、俳句を「拾いにゆく」「造化の語る」という思想と関連している。」(仁喜)

sooshiさん、
迫力のある写真をどうもありがとうございます!新緑もきれいですね。
そして兼題、どうもありがとうございます。今年もあっという間に夏至なんですねえ!
 

新緑を求めて

 投稿者:sooshi  投稿日:2017年 5月29日(月)20時26分51秒
返信・引用
  新緑が美しく映える季節となり、東北のまたぎの里を訪ねました。猟期はとうに過ぎていますので、資料館の熊の皮に思いを巡らせました。二枚目は残雪豊かな飯豊山系、三枚目はうわみず桜です。

追記 六月泉例会兼題;青嵐・郭公・夏至
 

俳句を拾う(2)

 投稿者:美保子  投稿日:2017年 5月23日(火)11時04分6秒
返信・引用
  「それにしても「物の見えたるひかり、いまだ心にきえざる中にいひとむべし」とは、いかにも俳句的である。近代文学論が無意識のうちに想定している十九世紀ヨーロッパ長編小説は、無論のこと、詩の分野で見ても中世叙事詩をはじめ抒情詩でも、「物の見えたるひかり、いまだ心にきえざる中に」などという瞬間芸的な定型詩論の当てはまるものは俳句を措いて世界のどこにもあるまいと思う。しかも、それがどちらかというと、「見えたる」などと受身的なのである。
 ここで思い出す言葉に、「俳句を拾ひに行く」というのがある。わたくしはこれを死んだ叔父から聞いたことがある。わたくしの叔父は植木屋で、一方、宝生居柳燕と称する村の宗匠でもあった。正しくは「ホツ句を拾いに出かけてくる」と叔父は使っていた。もう四十年以上昔になるが、当時いわゆる戦後文学、戦後詩に染まっていたわたくしは、そういう叔父のもの言いを何とも古くさく趣味的なものとして、やや軽侮の念をもって聞いていたが、その後徐々に改まって、俳句の本質に根ざした示唆の多い言葉として懐かしく反芻している。
「俳句を拾う」という言葉は、明らかに「人間作者」による「創作」という近代文学理念とは異なっている。俳句を「与えられたるもの」と見る見方で、そこには人間の「創作」活動を限定的に認識する思想がある。当然その相対には、わたくしが「造化」という言葉に盛り込もうとしている内容と類似のものが推測される。余所目にはやや牽強と映るかも知れないが、「俳句を拾う」-「物の見えたるひかり、いまだ心にきえざる中にいひとむべし」‐「俳句は造化の語る即刻の説話」とつながる関連が、わたくしの内では素直な形でできあがっているのである。
 ここでちょっと断っておくが、わたくしは俳句を文学概念の範疇から無理に外そうとしているわけではない。現在のいわゆる文学概念の中に箔付けのように嵌め込む必要を感じないだけである。俳句は作品がよければ、所属は何でもよい。」(仁喜)

お知らせとお礼
何度かここで俳人協会編『北海道吟行案内』について宣伝させていただきましたが、お蔭様で初版1000部を完売し、その後1000部が増刷されました。増刷分もすでに350部販売済みとのことです。小山草史さんを始め、協力していただいた方々に改めてお礼を申し上げます。本当にどうもありがとうございました!
 

俳句を拾う(1)

 投稿者:美保子  投稿日:2017年 5月15日(月)08時31分4秒
返信・引用
  「「俳句は造化の語る即刻の説話と考へてゐる」の「語る」には、俳句を生み出す最も根本的な主体を「造化」に置く考え方が籠められている。「語る」は、俳句作者の立場からは「聞く」に相当する語で、視覚的には「見る」、嗅覚的には「嗅ぐ」に当たる。謂わば五感を代表する語である。
 芭蕉の言葉を伝える『あかさうし』に、「物の見えたるひかり、いまだ心にきえざる中にいひとむべし」という一節がある。わたくしの言う「造化の語る即刻の説話」は、この「物の見えたるひかり」に近く、わたくしの「語る」は芭蕉の「見えたる」に等しい。芭蕉が「物の見えたるひかり」という時の「物の…ひかり」には「造化」の意識が働いている。言い切ってしまえば、この「物の…ひかり」は「造化のはたらき」であり、ある場合には「造化そのもの」でもある。「物の見えたるひかり、いまだ心にきえざる中に」と言う時、芭蕉は「物の…ひかり」を、見ようとすればいつでも見えるものとはけっして考えていない。それが「見えたる」である。無論「物の…ひかり」は、人間(俳人)が見ようと欲しなければ見えないものには相違ないが、むしろ天啓のごとく閃いて即刻に消えてしまうものである。言い換えれば与えられたるものの意識があり、これは人間(文学者)を最大の創作者と見る西欧風文学観とは明らかに異なるものである。」(仁喜)
 

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