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 投稿者:大天使ミカエル  投稿日:2014年10月20日(月)14時24分46秒
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  リチャードコシミズはじめとするRK独立党一味,特にザガロ、はらへった、あのねあのね、ツイッタにいるハイパー主水、ラインクラフトにバレバレ達は前田明美さんや精神病患者、とくに統合失調症患者を社会から精神病院に隔離してホローコーストしろと言っている在日朝鮮人ばかりのナチス野郎で、生長の家や大本教系のカルト工作員で、キモオタネトウヨと変わらない。
私も統合失調症だから奴らのこんなレイシズムに満ちた主張は許せない。
こんなやつらはネトウヨと共にに人権擁護法と秘密保護法を適用して、言論と表現の自由を剥奪すべし。

PS:投薬中心の精神医学に反対する奴らも、統合失調症患者を病院で休養させる療法に反対しない(あのサイエントロジー参加のCCHRやツイッターで『キチガイ医』と自称する東京DDクリニックの内海聡医師すらそれに賛同する)。
それは反精神医学の人間も、ユダ金や創価、統一の借ると信者と同じように、統合失調症患者を社会のゴミとしか見ていないからであるり、抹殺してもいいという考えだからである。
そして患者を入院させ、休養させることは、モルモット扱いに加え、家畜としてペットとして扱い、精神的、社会的な将来を破壊することでしかない。

http://blogs.yahoo.co.jp/mikaeru0628

 
 

れんだいこのカンテラ時評№1239

 投稿者:れんだいこ  投稿日:2014年10月19日(日)09時22分28秒
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   なぜ日本がホロコーストされるのか考その5

 本稿で、日本思想と国際ユダ屋が奉ずるネオシオニズム思想の違いを確認する。ここで云う日本思想とは日本思想一般ではなく、「れんだいこの原日本論新日本論」で云うところの「原日本の日本思想」のことである。同様にネオシオニズム思想とはユダヤ教内タルムード派、即ち「パリサイ派のネオシオニズム思想」のことである。まずは論ずる対象をこう確定させておく。この両者は思想の根本の型が違う。しかも凹凸的なほどに対極的に異なっている。これほどの違いを踏まえれば日ユ同祖論などあり得るはずがない。どうしても親しく関係づけたいなら、真逆な故に矯正的に補うことができる間柄であるぐらいのことは言えそうである。

 この問題は非常に興味深いテーマなのだが、今のところこのように問う例はないようである。試しにネット検索してみれば良い。れんだいこの問いぐらいしか出てこないであろう。これは、こういう観点からの問いかけがなされないよう誘導されているか抑圧されていることを意味している。そういう意味で先達の労作から学ぶ機会はない、手探りで解を見出さなければならない。以下記すが、その内容につき今後更に精度を上げて行きたい。

 本稿では日本思想とネオシオニズム思想の最も端的な違いを確認する。それは多神教と一神教の差に見える論理構造にあると思われる。これを根本解としたい。次稿ではやや具体的に見ていくことにするが、ここでは根本解のみを採り上げる。根本解は全体を総合的に把握する為に抽象的な解になる。抽象的に述べると普通は分かり難いのだが、時には却って分かり易いと云うこともあろう。

 さて結論である。日本思想とネオシオニズム思想の差は多神教と一神教の違いに見える論理構造の差であり、それはカオスとロゴスの差である。カオス論理式は絶対的真理なるものを予定しないので当然の如くに諸理論が共存する。更に云えば共存しつつ競り合いしつつ共生する。新たな理論に対しても登場させ易いようにオープン&アバウトな柔構造にしている。WHYと問い真理を求めるよりもHOWTOと問い機能を解析し、これにより得る知見を役立てようとする。これを仮に「悟る系」と命名しておく。

 これに対してロゴス論理式は逆に絶対的真理なるものを求めることこそ命とするので、我こそが真理なりとして互いに排他的な論旨を組み立てる。他の理論に対する唯我独尊的優位を誇り易いクローズド&生硬な剛構造にしている。HOWTOと問い機能を解析するよりもWHYと問い真理を求め、これにより得る知見を役立てようとする。これを仮に「発見系」と命名しておく。

 要するに両者は逆さまな関係になっている。日本思想は前者、ネオシオニズム思想は後者のものである。この差は丁度、新生児臀部の母斑の如くにDNAにまで沁み渡っているのではなかろうか。人は、この母斑思想に基づきながら思索しているのではなかろうか。両派の対立が何時頃より発生したものかは分からないが今後も永遠に続くように思われる。どちらもが正か邪か簡単には裁断できないが敢えて判定すれば、真理教条棒を振り回すネオシオニズム思想よりも、そういうものを振り回さない日本思想の方が実は英明で深いのではなかろうか。

 なるほどネオシオニズム思想の真理探究エネルギーには感服させられる。だがしかし、膨大な学的体系を構築して見出した真理に対して、彼らは、その真理を相対化すれば良いものを絶対化する癖がある。これにより別の教条を持つ思想と出会うや融通がきかない。互いから学ぶことをしないで己の正義を主張し合うことになる。これに対し日本思想はそういう真理論に耽らない、絶対的真理なるものを弄ばない。むしろ、真理論に拘泥して真理ならざる真理を無理やりに見出して、それへの恭順を説く思想を暗愚として忌避している。そういう分別、弁えを持っているので、対象の真理論ではなく機能論の探求に向かう。絶対的な真理教条をもたないことによる融通無碍の柔軟さがある。

 両者にはそういう違いがある。この気づきが何故に重要なのか。それは、先の「なぜ日本がホロコーストされるのか考その3」で述べたように、思想デザインが事物発生の原基ではないかと思っているからである。この原基はレールのようなもので、レールが変われば運ばれる先が変わることになる。故に政治、経済、文化、諸芸、学問、精神、規律、その他諸々が異なるようになる。これにより所作が違うことになる。こうして思想上のロゴス派とカオス派の違いがあらゆるところへ波及しているように思われる。そういう訳で、「社会の根本は思想闘争の歴史である」とでも云えるような思想こそが社会の根本的な規定をしているのではなかろうかと考えている。

 本来は、この違いをもっと重視すべきところ、されていない。今や次第にネオシオニズム思想の方が主流化しつつあるように見える。これは、現代文明がネオシオニズム思想の威勢に押されていることによると思っている。本来は日本思想の方の威勢が押すべきではなかろうかと思っている。これは歴史に委ねるしか方法がない。
 

れんだいこのカンテラ時評№1238

 投稿者:れんだいこ  投稿日:2014年10月12日(日)10時35分50秒
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   なぜ日本がホロコーストされるのか考その4

 本来はそろそろ日本思想と国際ユダ屋が奉ずるネオシオニズム思想との違いに入るべきだが、これはかなり高度で難解と云うこともあり、もう少し回り道しておく。要するにもったいぶりながら時間稼ぎしている訳である。

 日本思想のネオシオニズム思想との出会いは戦国時代であった。丁度、種子島への鉄砲伝来時期とバテレン布教開始時期が符合している。通説は、1543年(天文12)年辺りにポルトガルの商船が暴風雨にあって種子島へ漂着し鉄砲を売りつけたのが伝来史であるとされている。しかし、鉄砲伝来時期とバテレン布教開始時期が妙に符合していることを考慮し、バテレンが日本攻略術の一環として鉄砲を伝来させたと読みたい。こういうところは表に出てこないので推理能力を働かせる以外にない。

 バテレンが来襲するところ追って必ず王殺しが始まっているのが世界史の通例である。そういう目で見ると、バテレン来日以来の王殺し、寺社焼き討ちも疑わねばならない。「れんだいこのイエズス会考、ネオシオニズム系宗教結社考」で述べたが、1565(永禄8)年の13代足利将軍・義輝殺し(永禄の変)。1567(永禄10)年の東大寺大仏殿焼失。1571(元亀2)年の比叡山延暦寺を焼き討ち。1582(天正10)年の織田信長殺し(本能寺の変)。通説は、これらの事変の背後にバテレンの差し金を読まないが何とも味気ない。こういうところは表に出てこないので推理能力を働かせる以外にない。

 それはともかく、この時期、バテレンが次から次へと上陸し日本のキリスト教化を図った。このバテレンと云うのはキリスト教信徒団体を装っているが当時の国際ユダ屋の回し者である。その証拠が限りなく残されているので間違いない。以下、本稿ではバテレン教と表記する。バテレンによるバテレン教化は世界各地で首尾よく成功したのに日本では失敗した。これをどう読むべきか。具体的には織田信長の晩年のバテレン教離れ、豊臣秀吉のバテレン追放令、徳川家康のバテレン教禁教と鎖国により実現した訳であるが、時の権力者をしてそのように采配せしめたのが日本思想であり、日本思想こそが撃退したと読みたい。

 これにつき、1587(天正15)年の「豊臣秀吉の伴天連(ばてれん)追放令」で法理を確認する。追放令の直接的契機は、バテレン勢力に日本国乗っ取りの兆しがあり、これを認めたからである。秀吉が九州最後の大大名・島津氏攻めの為に博多に下った時、日本イエズス会・準管区長に新任したコエリヨが南蛮式軍艦に乗って大提督のような格好をして出迎えた。コェリョは大砲などの武器を見せ、スペイン艦隊が自分の指揮下にあるごとく誇示した。且つ九州を一巡する間にバテレン教大名によって無数の神社やお寺が焼かれているのを確認した。秀吉は九州平定直後、バテレン追放令を発布しバテレン勢力の掃討に乗り出した。

 バテレン追放令の法理を確認する。一つは、「植民地政策の尖兵として宣教師の布教が為されている」とする「日本国乗っ取りの危惧」であった。後に判明するところ真に英明な判断であった。次に、バテレン教がバテレン教以外を邪教とし排斥し、各地の神社仏閣を破壊し神官、僧侶らを迫害していることを咎め、「バテレン教の唯我独尊的独善ぶりは、神国日本の祖法である宗教各派の平和的共存政策を否定する邪教である。バテレン教が神社仏閣を打ち壊すのは不届きであり今後はきつく処罰する。教会に領地を寄進してはならない」として排斥している。これも又真に見識の高い判断であった。

 三つ目は、日本人男女を南蛮に売り渡す人身売買(奴隷売買)を禁止した。当時、「鉄砲火薬」と引き換えに日本人数十万人が奴隷売買され世界各地へ売られていた。これは余り知られていないが史実のようである。これにつき天正遣欧使節の次のような証言が遺されている。概要「どこへ行っても日本人奴隷が目につく。首を鎖でつながれ、我々をみて哀れみを訴える眼ざしは辛くてならぬ。日本の娘らが秘所をまるだしにつながれ弄ばれている。血と言語を同じうする日本人を家畜のように安い値で手放すわが民族への怒りに燃え立たざるを得なかった」。これも又首肯できるものであろう。四つ目は、肉食禁止令の系譜からのものであった。「宣教師達は牛馬を食べることを好む。それは日本の祖法に抵触している」。秀吉は、「馬や牛は労働力として活用するものであり食べるものではない」と批判している。これも又首肯できるものであろう。

 れんだいこは、これらの論理論法に注目している。見てきたようにバテレン教を正確に解析し、今日にも通用する見識でもってバテレン教を邪教と断罪し排斥している。この見識の拠って来る淵源に日本思想があるのではなかろうか。この日本思想は西欧被れ派に云われるような未開野蛮なものではなく西欧思想の一歩先を行っているのではなかろうか。かの時に確固として確立されていた日本思想のお陰で、日本は西欧列強の植民地支配の餌食にされずに済んだのではなかろうか。興味深いことに、隣の韓国では相当なキリスト教化が進んでいると聞かされているが、日本は今日まで世界各国の中でユダヤ-キリスト教がこれほど育ちにくい国はないとされる栄誉に与っている。これのお陰を日本思想に求めるのが、れんだいこ史観である。
 

れんだいこのカンテラ時評№1237

 投稿者:れんだいこ  投稿日:2014年10月 8日(水)20時17分44秒
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   なぜ日本がホロコーストされるのか考その3

 なぜ国際ユダ屋が日本を警戒するのか。それは、日本思想が国際ユダ屋が信奉するネオシオニズム思想と最も本格的に対立、拮抗し、転覆せしめる可能性を持つからである。思想にそれほどの威力があるのか。れんだいこは然りと答えたい。あらゆる物象、事象、心象、念象の根本には思想があると考えている。人類の始発に於いては、この思想を根底にして宗教も政治も経済もが始まっており、今も通底している気がしてならない。思想をデザインと言い換えても良い。

 マルクス主義の「すべてこれまでに立ち現れてきた社会の歴史は階級闘争の歴史である」(「共産主義者の宣言」)は能く知られているフレーズである。この見立てさえ既に怪しいと考えている。この文意は実は国際ユダ屋の信奉する歴史理論に由来するもので、これの原文テキストが別にあり、それの焼き直し的フレーズに過ぎないと看做している。

 社会の歴史を通史で判じるなら、正しくは階級闘争論ではなく「社会の根本は思想闘争の歴史である」と云うべきではなかろうかと考え始めている。それほどに思想の意義を高く確認したい。その時代の基本の思想が偏狭であれば社会が偏狭になり、逆におおらかであれば社会がおおらかになる。これは逆ではない気がする。

 付言しておけば、マルクス主義的哲学に於ける唯物論、観念論規定も既に古臭いと考えている。マルクス主義から出藍する新哲学を提起したいとさえ考えている。これによれば、元々に於いて物質と観念を「二つ一つ」、「色心不二」の生命相で捉えることに賛成である。単なる物質、単なる観念ではない阿吽の呼吸的に両者一体の生命相で捉え、その片方の表出体が物質であり、他方の表出体が観念であるとする一体的相互作用的に捉える言霊哲学を欲している。

 もとへ。そういう風に思想の意味、意義を位置づけ、これを高く評価し、その上で、日本思想対国際ユダ屋思想の対立の位相ぶりを確認してみたい。何と日本思想とネオシオニズム思想とは両極なほどにことごとく根本的に対比的に相違している。世上の一部で日ユ同祖論が流布されているが、この思想の型の違いからしてあり得ないと断定したい。これについては既に「"http://www.marino.ne.jp/~rendaico/judea/hanyudayasyugico/nihonnokenkyushi/nithiyudosoronco/rendaicoron.htm" "れんだいこの日ユ同祖論の陥穽考、日ユ反祖論」で言及している。

 日ユ同祖論否定上、次のことを強調して再確認しておく。国際ユダ屋の篭絡手段して日ユ同祖論が云われているのであり、連中は赴く先々で同様の説話を拵える。大きい話しでアングロサクソン同祖論、黒人同祖論、アラブ同祖論。個別的には英ユ同祖論、エチオピア人同祖論、インディアン同祖論、ハワイアン同祖論、日本同祖論、朝鮮同祖論等々キリがない。要するに、彼らが植民地化を企図するところいつでもそういう洗脳から始める。宣教師はキリスト教の牧師としてこれを教えるが、実際にはユダヤ教のラビ活動をしており、結果的にユダヤ教の別教義であるタルムード教を奉ずる国際ユダ屋の秘密結社員に仕立て上げ、そのエージェントとして活用する為の洗脳教義のプロパガンダ要員に過ぎない。これが国際ユダ屋式支配の方程式である。

 日ユ同祖論はかくイカガワシイものであるが、これの浸透ぶりが激しい。先だって、日ユ同祖論を否定するれんだいこに向かって「れんだいこは非常識にも日ユ同祖論を否定する」なる批判言辞を頂戴させられた。この御仁にとっては日ユ同祖論の方が常識であり、批判する方が非常識と云うことらしい。エライ時代になったもんだと思う。そう云えば、あの人もこの人も日ユ同祖論者であり、今や日ユ同祖論が大手を振って闊歩しているらしい。しかしながら告げておく。日ユ同祖論の尤もらしい論拠はこじつけ話しに過ぎない。そういうものはどうでもなる。それよりも、日ユに於ける次に述べるような思想骨格の真反対な違いをどう説明するのか、口をもぐもぐさせずに述べてみぃ。
 

れんだいこのカンテラ時評№1236

 投稿者:れんだいこ  投稿日:2014年10月 3日(金)21時53分38秒
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   なぜ日本がホロコーストされるのか考その2

 なぜ日本がホロコーストされるのか。2014年現在の日本は、国際ユダ屋の世界支配秩序派が世界に向けて「敗戦国日本のその後を見習え」と誇るほどに全く従順に馴致、飼育されている。よって、この状態から国際ユダ屋の世界支配秩序を脅かすものが生まれる訳ではない。

 問題は、日本が一見して単一民族的な天皇制国家に見えるが実は日本の政治支配構造の二重性にある。これには去る大昔の古代史上の最大政変たる国譲りが大きく関係していると見立てるのが、れんだいこ史観である。即ち、国譲りにより、それまでの支配者の原日本系が力を温存したまま野に下り、新日本系が新王朝として君臨することになった。この「手打ち」史実が日本史の根底を規定している。この史実を踏まえない歴史家が多いが、ここを踏まえないと日本史の歴史事象が理解できないだろう。

 以来、日本は新日本系が支配するようになったものの、野に下った原日本派が陰に陽に新日本系王朝に影響を与え、両者の有無相通ずる了解で諸事を御している。これを逆に云えば、原日本派の意向を蹂躙することでは何事も首尾よく進展しない。そういう圧政の時期もあったが最終的に両者協調することで日本史を連綿とさせて来た。これが天皇制にも刻印されており、いつの間にか次第に原日本系の大王制と新日本系の天皇制が同衾して今日に至っている。日本はそういう意味で珍しいタイプの二重拮抗国家となっている。

 れんだいこは、「原日本論新日本論」で日本史をかく紐解こうとしている。これが日本に対する正しい理解の仕方であると思っており、お陰で日本史がよく見える僥倖に浴している。中曽根式単一民族論&一元的天皇制論なぞはカンナクズ的に薄っぺら過ぎる白痴理論と考えている。

 なぜ日本がホロコーストされるのかが、これに関係している。即ち、紀元3世紀中頃、原日本系出雲王朝の最後の政体としての邪馬台国が滅ぼされて後、新日本系がその後の日本を支配することになったが、その支配がまもなく破綻する。このまま行くと日本は国際ユダ屋支配の植民地にされる。しかしこうなると、かって野に下った原日本派が黙っていられない。国譲りの際の取り決めに「善政誓約事項」がある。それが破綻した以上、原日本派が復権し再び英明な政治に転換させ日本を御して行く以外にない。近未来の日本はこのどちらかに向かわざるを得ない。今は、そのせめぎあいの時代である。

 仮に、原日本派政治が復権したとしたら、原日本派の能力が素晴らしく高いものであり、それが自ずと国際ユダ屋の世界支配秩序と対立し、その秩序を打ち壊す勢力となる可能性がある。それ故に日本が警戒されている。分かり易く云えば、国際ユダ屋は日本のこの潜在能力を恐れている。原日本派が国際ユダ屋と対立しているあらゆる勢力と提携することが、彼らから見た最悪夢である。この事態を避ける為に、いっそのこと「日本を双葉の芽のうちにホロコーストせよ」指令が下されている。あらゆる日本研究を総動員して日本という国と民族と社会の破壊、解体、溶解、骨なし化を企図している。簡単に言えば、こういう図式となっている。

 こう知ったからには既に半分が解答されている。後の半分は、日本側の実践的な対応である。これが我々に問われている政治能力である。以下、目下の自公民政治の愚劣さを確認したいが、これを割愛し、国際ユダ屋の恐れる日本思想と国際ユダ屋思想の根本的対立の位相を確認することにする。
 

れんだいこのカンテラ時評№1235

 投稿者:れんだいこ  投稿日:2014年 9月23日(火)12時02分7秒
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   なぜ日本がホロコーストされるのか考

 このところホロコースト絡みの論考を連続している。筆が進まないのは扱う内容が難しいからである。新たに本稿を加える。論題は、「なぜ日本がホロコーストされるのか。これにどう処すべきか」である。先に「ホロコースト日本論」を述べたが、こう問う者は私が初めてだろう。但し、こうはっきり問わないだけで同じような思いを持つ者が居るはずであろうから、そういう人たちには興味の湧く問いであろう。本稿を読んでなおカエルのツラにションベンの者はよほどの極楽トンボであろう。

 「なぜ日本がホロコーストされるのか」。結論から述べると、それは、日本が現在の国際ユダ屋の世界支配秩序を崩す可能性を持つ有力勢力の一つだからである。今や全く従順に馴致、飼育されている感のある戦後日本が何故に国際ユダ屋の世界支配秩序を崩す可能性があるのか。

 これに答えられる者がいるだろうか。恐らくいない。何ゆえか。それは「れんだいこの原日本論新日本論」を媒介せずには解けないからである。それほどに「原日本論新日本論」の価値は高い。この見解は決してれんだいこ独自のものではない。有益系の学識を煎じ詰め、したたり落ちるものよりもたらされたものなので、同じような煎じ方をした者が居れば同様の見解に辿り着こう。

 「これにどう処すべきか」。これを「れんだいこの原日本論新日本論」でトレースすればどう解けるのかの解を開陳する。日本がホロコーストされるべき理由は、現在の国際ユダ屋の世界支配秩序を崩す可能性を持つ有力勢力の一つだからであり、今や全く従順に馴致、飼育されている感のある日本が何故に国際ユダ屋の世界支配秩序を崩す可能性があるのかの問いに対して、れんだいこは、こう答える。

 その前に諸賢の解を待ちたい。待てど暮らせどそういう解は提起されないだろうが、もったいぶることにした。なぜなら、れんだいこ自身が今、論を発酵中なので多少時間稼ぎする必要があるからである。
 

れんだいこのカンテラ時評№1234

 投稿者:れんだいこ  投稿日:2014年 9月 3日(水)19時20分1秒
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   ホロコースト日本論

 2014.7月来のイスラエルによるガザホロコーストを注視し、翻って次のような気づきを得たので発表しておく。アウトライン描写ながら、れんだいこの気づきを公開しておく。

 今ガザでは人の最低限生活のライフラインさえもが意図的故意に壊され、それでも逞しく生きているパレスチナ人を確認することができる。ガザホロコーストの残虐非道ぶりはめったに報道されないが、たまの報道の隙間からかく窺うべきである。

 日本ではガザホロコーストを他人事と思ったり、イスラエル支持寄りの姿勢で論調する者が大多数のように思われるが、これは敗戦国現象である。即ち、去る日の第二次世界大戦に敗戦し、戦勝国側の国際ユダ屋支配秩序に馴致され飼育させられているからに過ぎない。それは丁度福島原発被災民に対する無関心と軌を一にしている。はっきり言っておく。それは滅びの道である。

 思うに、日本は、ガザホロコーストと無縁であるどころか既に「西のガザ、東の日本」と位置づけられるようなホロコースト被災民仲間ではないのか。違いがあるとすれば、「西のホロコースト」がハードタイプであるのに比して、「東のホロコースト」はソフトタイプと云うことなのではないのか。こう捉えることで始めて今、現に日本で進行中のあれこれの変態事象が説明つく。

 この変態事象を挙げようとすれば全分野において多重多角多面的であるのでキリがない。要するに日本が国家としても民族としても社会としても滅ぼされようとしており、あるいは溶かされようとしている。そのサマは暴力的、薬害的、中毒的、汚染的、白痴的、痴呆的、少子化的、貧困化的、多重債務化的等々あらゆる悪の仕掛けの術中に嵌められている。

 政治が、これを阻止するのではなく、どんどん呼び水すべく立ち働いている。この方向に照準が合わされ、これを請け負うと誓約した政治家のみが国際ユダ屋の後押しで権力の出世階段を上り、売国狂態政治に呆けている。

 こういう政治の愚劣化は1980年代初頭の中曽根政権と共に加速した。連中は口では愛国者然、民族主義者然と唱えるが、その裏で売国政治に勤しむのが特徴である。こういう政治がもう既に30年余続いている。それにしては日本丸はよくぞ持ちこたえているなと感心させられるほどの粘り強さではある。この認識が現下の日本を捉える大きな構図となるべきではなかろうか。この構図下で個々の分析をすれば良い。この逆を説く論説が現れたら大きく眉唾すればよい。

 今や日本を語るのに、「西のガザ、東の日本」の位置づけでホロコーストとして見なさなければ正鵠を得ないのではないのか。そういう生体実験が続けられているのではないのか。福島原発事故対応のお粗末さは、生体実験日本の象徴なのではないのか。かく認識し、日本を見据えれば次から次へと見えてくるものがある。ここを共認識することが次の時代の政治の第一歩となるべきではないか。自公民、その亜流政治なぞ評するに足りない。
 

れんだいこのカンテラ時評№1233

 投稿者:れんだいこ  投稿日:2014年 8月22日(金)20時02分37秒
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   ホロコーストの原義考

 ここで「ホロコースト(holocaust)の原義考」をしておく。「ホロコースト」は現在、「ナチスによるユダヤ人迫害」を指して使われている。ホロコーストの史実性詮議はさておき、ここでは何故に「ナチスによるユダヤ人迫害」にホロコーストなる概念が被せられているのか、その不自然さに対する解を求めたい。

 その為にまず「ホロコーストの原義」を確認しておく。どうやら旧約聖書の創世記の章での「ユダヤ民族の直接の父祖・アブラハムとエホバ神の問答」に端を発している。それによれば、アブラハムは晩年にようやくにして初めての子としてイサクを授かっていたが、或る日、「イサクを山上の聖壇で焼き殺せ」との神示を受けた。この場合の「焼き殺せ」をホロコーストと云う。

 アブラハムが逡巡したのかしなかったのかは分からないが、神の命令を絶対として指示通りにイサクを祭壇の上でホロコーストしようとした。その刹那、「待て待て、もう良い。お前の信仰の深さはよくわかった。神の命令とあらば、ようやくにして授かった一人息子さえ犠牲にするその覚悟を見届けた。もうイサクをホロコーストするには及ばない」との天の声があって、めでたしめでたしとなった云々。この神話は、神の意思が絶対であること、神の意思を第一とするのが信仰であること、この信仰者に対して神の恩寵がもたらされるとする三段論法説話になっている。

 この「アブラハムとエホバ神との問答」からホロコーストが始まっている。元々は「全燔祭」と訳されている。「日の出とエルサレム神殿と燔祭(ホロコースト)」(ピーター・コノリー・パトリック・レステリーニ著「イエス・キリストの時代」(東京書籍、1989年)参照)が次のように解説している。

 概要「エルサレム神殿では、日の出の時、祭儀として犠牲の燔祭が東に向けて捧げられた。聖所が東向きに建てられており、一対の幕が下がり、白い大理石の床にT字帯(月経帯)型の溝が掘られている。ちょうど聖所が太陽を出産しているようなかっこうとなっている。ユダヤ教の律法の書に従って、日の出の時、T字帯の床に犠牲の血が注がれる。血を抜いた犠牲の内臓とその脂肪を聖所の前で焼き、その煙を天に届ける。この祭儀を燔祭(ホロコースト)と云う。その祭儀は、西暦70年、神殿の聖所が焼き討ちに遭い、立て篭もっていたユダヤ人が焼き殺されるまで毎朝続けられた」。

 これが「ホロコーストの原義」である。それは、「信仰の真性を証す為に人身御供(生け贄)を聖壇で焼き尽す」儀式であり、その儀式を通して共同体の意思と結束を固め、「災厄の除去、贖罪、隆盛を祈願する」祭りとなっている。特に新年祭で盛大に行われ、様々な生け贄が供犠所に捧げられる。その最大の生け贄が人間で、その究極が新婚夫婦の「初子のお供え」であったと云う。この祭り全体を総称してホロコーストと呼ぶ。

 しかしながら、どう見てもこのような教義、儀式、祭りは一般的なものではない。恐らく世界中捜しても例がない。例えば日本神道と比較してみよう。日本神道では神と人とは和楽的且つ談じ合い的であり、間違っても「アブラハムとエホバ神との問答」的な厳罰的なものはない。神は人の親であって、慈悲は掛けても、親が子に過酷な命令をすることはない。これを人から見れば、神は人にとっての理想であり、人が好んでその能力にあやかりたいと思うのが神であり、その神が人に対して酷い命令をすることはない。要するに、ユダヤ教と日本神道では神と人との関係が全く逆なものになっている。

 よって、日本神道の教理にはホロコースト的教義は全く見出せない。そういう意味でホロコーストはユダヤ教独特の教義であり、ユダヤ教義の異質性を象徴している。日本神道から見れば、ユダヤ教の狂気性を物語る教義が多々認められるが、ホロコースト譚もその典型的な一つであり、それでしかない。

 もとへ。以上で「ホロコーストの原義」を確認できたとして、「ナチスによるユダヤ人迫害」にホロコーストの名を被せるのにはどういう理由があってのことだろうか。見てきたように普通には繋がらない。それを敢えてホロコーストと命名しているからには、然るべき理由があってのことではなかろうか。

 但し、ここが曲者なのだけれども、彼らは特有の二重基準で「内向けのホロコースト」、「外向けのホロコースト」の両刀使いをしており、「内向けのホロコースト」の意味を明かさない。「内向けのホロコースト」の意味は隠したままで、「外向けのホロコースト」即ちナチス糾弾論を流布させている。そういう訳で、「内向けのホロコースト」の意味を詮索せねばならない。彼らが、「ナチスによるユダヤ人迫害」にホロコーストなる命名を宛がった理由と真意を探らねばならない。思うに、「ホロコースト」には自律的積極的肯定的宗教的な「生贄の犠牲思想」が媒介している。であるとするならば、「ナチスによるユダヤ人迫害」にどのような犠牲思想性が認められるのだろうか。こう問う人は滅法少ないであろうが重要な問いである。

 参考までに確認すると、「三省堂大辞林のホロコースト」は次のように記している。「大虐殺。特にナチスによるユダヤ人の大量殺戮(さつりく)をいう」。「小学館大辞泉のホロコースト」は次のように記している。「大虐殺。とくに、ナチスによるユダヤ人の大虐殺」。他も似たり寄ったりで、原義の「ユダヤ教に基づく燔祭的意味」をすっかり外していることが分かる。これでは「ナチスによるユダヤ人迫害」にホロコーストなる命名を宛がった理由が解けない。

 「ホロコースト」はユダヤ教独特の用語であり、「祭儀の際の人身御供生け贄」を指している。「ナチスホロコースト」命名者は当然その語義に基づき命名している。となると、解し方は、「ナチスホロコーストの犠牲者」を「ホロコースト的生け贄」と受け取るしかない。あるいは「ナチスホロコーストの実行者」を「報復的生け贄」にするとの意思を込めたものと受け取るしかない。これ以外の理解の仕方は難しい。

 こうなると、「シオン長老の議定書」に濃厚に表れている近代シオニズムのユダヤ王国再建思想を媒介せずには解けないのではなかろうか。即ち、「ナチスホロコースト」を、彼らの世界支配計画に政治的に供えられた生贄と位置づけ、彼らのイスラエル建国運動に資せる形で利用して行くものとする。これが「ナチスホロコースト」が歴史的に持つ使命であり地位ではないのか。

 こう考えると、「ナチスホロコースト」は徹頭徹尾宗教性のものであり政治主義的なものであることが分かる。然しながら、ホロコースト命名者たちは、そのシオニズム的意味を隠して単に戦後反戦平和運動の誓いの起点としてプロパガンダさせていった。これにより「ホロコーストの教訓」が戦後反戦平和運動のリトマス試験紙の役割を担うことになった。お調子乗りが、ホロコーストに纏いつく宗教的政治的意味を理解せぬまま追随し今日に至っている。南京大虐殺事件には疑義を挟むがホロコーストは絶対の真なりとして講釈する自称インテリが身近にいるが、そういうユダ屋ナイズインテリばかりが登用されている。

 ここまではまだ良い。問題は、「ナチスホロコースト」が偽史であった場合にどうなるか。これにつき西岡医師が精力的に論証しているのは周知の通りである。仮に「西岡医師のホロコースト虚構説」が真ということになると、一体どういうことになるのか。話がこういう風に続いていくことになる。この辺りでいったん筆を置くことにする。
 

れんだいこのカンテラ時評№1232

 投稿者:れんだいこ  投稿日:2014年 8月 4日(月)20時19分36秒
返信・引用
   ガザホロコースト考

 2014.7月、もう何度目になるのか数え切れない新たなガザホロコーストが始まり8.4日現在なお続いている。この情報を得たいが世界的に報道管制が敷かれている。日本のみならず世界でも、日本ほど酷くはないがガザホロコーストが極力スルーされている。代わりにマレーシア旅客航空機撃墜事件、ウクライナ軍事危機等々がメイン報道されている。これを伝えるニュースキャスターの表情を窺がうのに真実報道よりもニュースショーを演じている気がしてならない。

 「ガザホロコースト」とは、パレスチナのガザ区に於ける、イスラエル軍によるワンサイドゲーム的な空爆及び地上戦闘によるガザ難民虐殺を云う。「ガザホロコースト」には殺し方に特徴が認められる。即ち、無慈悲に殺さねば殺したことにならないとばかりな冷酷無残な殺傷に終始していることである。もうひとつは、国際法的な安全地帯である学校、病院、教会、国連施設にわざわざの砲撃を加え非戦闘員である子供、婦女子、老人に巻き添え死を強制している。こたびの2014ガザホロコーストでは特にこれが目につく。れんだいこには、「ガザホロコースト」の一連の過程が、あたかも惨劇の祭りをしているように見えて仕方ない。そのサマは許し難いの度を超していよう。

 この「惨劇の祭り」の背景にあるものを愚考してみたい。「惨劇の祭り」は彼らの歴史的伝統からもたらされているのではなかろうか。れんだいこは、「ガザホロコースト」の一部始終にイスラエル及びイスラエルを支配する国際ユダ屋に特有な「歴史的癖」を認めている。ここで云う「歴史的癖」とは「悪魔教的信念に基づく意図的故意の狂態」を云う。かれらの目線にあるのは「同胞ユダヤか敵方ゴイムか」の判別しかない。「同胞ユダヤ」となれば等級をつけ序列化して囲い込む。「敵方ゴイム」となると何の遠慮も要らない虫けら、畜生類扱いして、煮て食おうが焼いて食おうが我らの権利であるとして気ままなな意思による処断に任せ、残虐であればあるほど正義だとしている。こういう論法、行為が許されること自体信じられないが現に通用している。

 こういう見立てをする国際ユダ屋が歴史の表舞台に登場する比重が強まるにつれ、人類史上に惨劇が常態化するところとなったのではないのか。それが証拠に、国際ユダ屋が歴史の表舞台に登場してきた近代以前に於いては、世界史を見渡してみても、これほど執拗な惨劇の常態化は見当たらない。同様の事例があるとすれば裏で国際ユダ屋が糸をひいているケースが多い。近代から現代までの人類史上の惨劇の主流は、彼らのドグマ的な教条に基づく非和解的絶対戦争によるものではなかろうか。

 その昔、ローマ帝国がこの「国際ユダ屋の歴史的癖」に手を焼き、この連中の扱いに苦慮し、とにかく国家を持たせぬのが賢明として所払いさせた。これにより連中は長らく国家を持たぬ放浪の民となった。各国の申し合わせにより、連中の行く先々で公民権が剥奪された。何とならば、この連中に権力を持たせると人類史に災禍が及ぶことを見抜いていたからである。今にして思えば、ローマ帝国の対国際ユダ屋対策としての「国家を持たせない、所払い、公民権剥奪」は国際ユダ屋の習性を見抜いた英明な政策であったことになるのではなかろうか。

 その放浪の民が国家を持とうとする悲願の末に漸くにして第二次世界大戦後に建国したのがイスラエルである。この経緯の考察は本稿では割愛する。これにより、数千年来パレスチナの地に住み続けていたアラブ人が俄かに土地を追われ難民と化した。その一部がガザに住みつきガザ難民となって今日に至っている。

 興味深いことは、イスラエルの建国過程とパレスチナ難民の発生過程である。さる昔のローマ帝国の危惧した通りの「国際ユダ屋の歴史的癖」を満展開させつつ今日に至っている。国際ユダ屋が絶対権力を振るうところ決まって「残酷非道なゴイム掃討戦」が見舞われているが、これまでもそうでありこの先もそうであろう。この過程で全てが逆さまに評される。即ち正義が不正義にされ不正義が正義になる。有徳が背徳にされ背徳が有徳にされる。

 こたびの「イスラエル軍によるザホロコースト」がいつ収まるのか分からない。イスラエル軍の絶対的優位が続いているように見えるが、この優勢が永遠に続くことは有り得ない。パレスチナ人の恨みが物質化される日がそう遠くない将来やって来る。この時、「国際ユダ屋の歴史的癖」とは一味違うパレスチナ人の英知による平和創出を見てみたいと思う。付言しておけば国際ユダ屋主導の平和なぞ有り得ない。彼らを憲兵にさせるのは、泥棒に権限を与えて夜回りさせる愚に似ている。強姦魔に婦女子を自宅に送らせる愚に似ている。これだけは有り得ないしあってはならない。こう例えれば分かって貰えるだろうか。歴史を紐解けば、そういうことが見えてくる。
 

れんだいこのカンテラ時評№1231

 投稿者:れんだいこ  投稿日:2014年 7月 3日(木)18時04分17秒
返信・引用
  【れんだいこの滋賀県知事選考】

 6.26日、嘉田由紀子知事の任期満了に伴う滋賀県知事選が告示された。投開票は7月13日。これに一言しておく。

 何も滋賀県知事選に限ってではないのだが、「自民・公明系A候補対共産系B候補」の選挙戦と云うのが、このところの定番である。自公系のAが常勝し、共産系のBが善戦総括してシャンシャンとなる。これも定番である。問題は、これをどう見るべきかである。今度こそ共産系Bを勝たさねばならない、そうならないのはひとえに我々の努力が足りない、この真実が分からない愚弄の民の啓蒙に引き続き邁進せねばならないと合点する向きの者は、以下読む必要がない。あらかじめ申し上げておく。

 こたびの滋賀県知事選は、自民、公明系A候補(元経産省官僚の小鑓(こやり)隆史、47歳)対共産系B候補(党県常任委員・坪田五久男、55歳)。これにC候補(元民主党衆院議員の三日月大造、43歳)が割って入っている。これをどう見るべきか。C候補の三日月氏が選挙定番にお邪魔虫しているだけだろうか。れんだいこは違うと考える。案外と重要な戦いに打って出ているのではなかろうか。

 C候補三日月氏は、「自民・公明推薦A候補対共産推薦B候補」と云う表見的には対立しているようで本質的に同じ穴のムジナのじゃれ合い選挙にノンを突きつける有意義な選挙戦を戦っているのではなかろうか。万一、C候補三日月氏が当選すれば、「自民・公明対共産」と云う「政治お遊び」に鉄槌を下し、日本政治史上のこのところの流れを変えるきっかけになるのではなかろうか。その意義は高いと考える。

 それにしても透けて見えてくるのは共産党の変態的な対応振りである。共産党は、平素は自民、公明と対極的に闘う位置で発言する。但し、その共産党よりもっと鋭角的に自民、公明と闘おうとする左派が出てくると、自民、公明になり代わって、あるいは自民、公明の及ばざるところを補足する形で攻撃し始める。仮にその左派が壊滅されれば、又元に戻って共産党が自民、公明と闘い始める。こういう仕掛けの場合、共産党のような対応をどう評するべきだろうか。これを的確に把握する眼力が問われているのではなかろうか。

 以下、文意の流れからすると、れんだいこの眼力を披瀝するようになるのだが、余りの衝撃の故に脳震とうを起す者が生まれることがあることを思い、本稿では控えることにする。結論を言えば要するにニセモノ論になる。日本政治は今や自公と云う表権力ニセモノ、社共と云う裏権力ニセモノに支配されており、このクビキから一刻も早く抜け出さないと事態をますます悪化させると読む。

 あらゆる政治課題に云えることだが「自民・公明対共産」に任すと一見対立しながら次第に良くない方向にリードしてしまう。それは最悪、大和国家と民族が解体される。それを良しとするオカルト勢力が愛国心を吹聴しながら手前本位の利権政治にうつつを抜かしていると読んでいる。この流れに棹差さんが為に本稿を発信しておく。
 

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