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れんだいこのカンテラ時評№1272

 投稿者:れんだいこ  投稿日:2015年 8月11日(火)22時25分36秒
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   1985日航ジャンボ機の御巣鷹山墜落事故事件考その2

 2010.8.21日付けブログ れんだいこのカンテラ時評782の「れんだいこの1985日航ジャンボ機の御巣鷹山墜落事故事件考」に続いてその2を発表しておく。門外漢なのではあるが、私の誕生日の事件と云うことで奇しきな縁を感じてウォッチを続けている訳である。今年、何か言わせるものがある。

 一般に、事件は日々発生しているが、ディリーニュースとして消化的に処理されて構わないものと歴史の最奥部に関わっており根底の真相を解明せねばならないものの二種ある。当然、その中間のようなものもあるので三種とみなすこともできる。「1985日航ジャンボ機の御巣鷹山墜落事故事件」は、このうちの「歴史の最奥部に関わっており根底の真相を解明せねばならないもの」に属する。この事件の待遇の仕方として、まずこの観点を確立せねばならない。そういう訳で、「根底の真相を解明」に向かう。

 「その1」の構図を継承し、その後明らかになったことを補足したいが、この方面はできていないので他日に譲る。本稿では、この事件の核心的なキモの部分を再確認し共認を深めたいと思う。もう一つの中曽根犯罪を裏付けることに力点を置く。やること為すことが骨の髄までユダ屋被れであり、よくもバチが当らず90歳まで生きておることよと感心させられている。

 マスコミの長年の名宰相論、大勲位論だのは当分の間、お笑いの種になるであろう。要するに中曽根は国際ユダ屋御用聞き一等賞の首相であり政界君臨者である。その対極が田中角栄であり、角栄の運命は衆知の通りである。よりによって二人が同年生まれの同期代議士にして首相経験者であるとは。歴史は時にこういう奇しき味なことをする。

 さて、第一に記しておくべきことは、JAL123便(以下、単に123便と記す)の操縦者についてである。海上自衛隊出身の高濱雅己機長、他に佐々木祐副操縦士、福田博航空機関士の3名が操縦していた。この3名は日航の誇る名パイロットであり鉢合わせすること自体が異例であった。事前に何事かが起ることが予見されており、その対策としてクルーにされていたようである。であるとすれば何が待ち構えていたのかが詮索されねばならない。

 6時12分、123便が524人の乗客乗員を乗せ羽田を離陸した。これより「32分間の戦い」が始まる。18分、クルーが右前方から奇怪な飛行物体が飛行機に近づいて来るのを視認している。23分、一度外したシートベルトの再着用をアナウンスしている。24分35秒、123便が伊豆大島の北の相模湾上で、「ドドーンドンドン」と云う衝撃音が発生し垂直尾翼に何ものかが衝突した。同37秒、客室高度警報音(または離陸警報音)が鳴っている。同40秒、関東南A空域のレーダー画面に「エマージェンシー・コール」(EMG、緊急事態)の赤い文字が点滅しピーピーと金属音を帯びた警報が鳴り異変を知らせた。同42秒、機長が、東京ACC(東京航空交通管制部)にEMGの国際緊急無線信号「スコーク77」を発信している。

 以降、123便と管制室の命がけのやりとりが始まっている。機長は、「スコーク77」を発信した後、「羽田への帰還」を求めている。28分30秒、「現在アンコントロール(操縦不能)」と発信している。管制官は名古屋に着陸できるかと聞いている。機長は羽田着陸を主張している。この間、横田基地へ着陸誘導されている。31分02秒、機長は羽田に戻りたいと強く主張している。同08秒、焼津市上空を通過したあたりから次第にダッチロールし始めている。

 なぜだか羽田空港に引き返すことができない状態になっており、右に大きく旋回し北方向へ飛行を続けていった。この後、異変が発生しているが略す。40分頃、管制室が横田基地への緊急着陸を指示している。この後、「謎の7分間の空白」となっているとされ明らかでない。傍受によると、横田基地が合計13回にわたって「スタンバイできている」ことを繰り返し呼びかけている。123便はなぜかこれに応答していない。

 47分、123便は墜落地点である御巣鷹山に向かって降下して行く。この時、自衛隊機が123便の前方に出て進路誘導している気配があるが、強引に左旋回飛行指示を出して抵抗している。47分頃、既に墜落を覚悟し、最適の着陸地を求めて操縦している。48分40秒、機長「山いくぞ」、副操縦士「はい」。凡その着陸地の方位方角が決まったようである。50分09秒、機長「どーんと行こうや」。同27秒、機長「がんばれ」。副操縦士「はい」。この後のやりとり略。56分26秒、猛烈な衝撃音。

 ここまでのピット内のクル―、パーサー、スチュワーデス乗務員一丸の奮闘は涙なしには語れない。この経緯で何を窺うべきか。機長が横田基地への着陸を頑なに拒否し、羽田に戻る旨を告げ、それが拒否され、(多くの解説が、ここの下りを逆に評している。本稿以降は通用しなくなるであろう) 123便は、与えられた情況と条件下での最適の操縦により「御巣鷹の尾根」に胴体着陸した。即ち多くの人が生き残られるよう海ではなく、なぜだか基地でもなく、山を目指し、「御巣鷹の尾根」を見つけ、墜落と云うよりも着陸した。

 「れんだいこの事件考」はここまでが前半で、ここからが後半となる。後半については来年度の命日に記そうと思う。関心は、機長を始めとするコックピットの名操縦で相当数の者が生き残っていたのに、女性ばかり4名のみが生還した不可解さを問うことにある。午後7時だと、それほど暗くはなかろうに、長時間にわたって墜落現場が不明だとされ、向かった者は誤誘導され、あるいは正しく向かう自衛隊員が始末されたとも云う。これに関心の湧く者は各自で調べるが良かろう。
 
 

れんだいこのカンテラ時評№1271

 投稿者:れんだいこ  投稿日:2015年 8月 9日(日)13時10分7秒
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   書評/井上和彦著「撃墜王は生きている」考その2

 井上和彦著「撃墜王は生きている」は概要次のように記している。当時の大本営参謀が、戦況宜しからずの形勢下、本土防衛決戦にシフト替えし、陸海軍の精鋭パイロットを寄せて守備に当らせた。その精鋭たちが、陸軍と海軍のメンツを争うようにして勇猛果敢に大空を馳せ、手前たちも撃墜されるがその何倍もの敵機を撃ち落して順次最後を遂げていった。こうして戦歴輝かしい撃墜王たちが何人も姿を消している。

 戦争末期、B29が何度も何波にもわたって来襲するようになったが決して手をこまねいていた訳ではない。仮に地上からの反撃が鉄砲届きしなかったとしても、空中では陸海軍の精鋭が懸命に敵機撃墜に精出しており、甚大なる被害を与え「一定の抑止」効果を挙げていた。

 戦闘機パイロットは十二分に敢闘した。特攻隊も然りであった。運よく残り得た者も居り、その彼らは終戦の日まで意気盛んであった。ここからがれんだいこ説になるが、これらのことが総じて「その後の歴史抑止力」として働いたのではないのか。 考えてみればそれは何もパイロット、特攻たちだけではない。戦史の至る所に日本兵士の敢闘が刻まれており、それらは日本占領支配の困難さを予見させるに足りるものであった。広島、長崎への原子爆弾投下により一気に降伏に向かったとはいえ、一筋縄ではいかない陸軍、海軍の主力が健在して隠然とした威力を保持していた。シベリア抑留などは、この観点からの陸軍帰国阻止の為の遠投であった。

 この辺りの機微について著者は次のように述べている。

 「圧倒的な物量の差で、多勢に無勢の戦いを強いられ、消耗し、最後は数でねじ伏せられたが、どれほど不利な状況下にあっても、日本の航空部隊は、米軍に確かな傷跡を残し続けたのである。戦後、アメリカが日本の重工業を解体し、終戦から昭和27年にサンフランシスコ講和条約が発効されるまでの7年間、航空機の製造を禁止し続けたのは、それほど日本の航空技術とパイロットを恐れたことの証左である」。

 この下りの「アメリカ」のところを「国際ユダ屋」と読み直し、「それほど日本の航空技術とパイロットを恐れた」のところでは「その他の分野でも然り。日本の技術と頭脳を恐れた」と補足すれば、なお能く見えてくるであろう。

 この「その後の歴史抑止力」が働き、GHQの対日支配をして間接統治の策をとらしめることになった。その間接統治の有効策として、当初の天皇制解体指針を転換させ昭和天皇利用に向かわしめた気配が濃厚である。この辺りの考察は別の機会にしようと思うが、この見地からの考察は大いに意味があるのではなかろうか。この見地からの戦史論がなさ過ぎるのが不満である。

 もとへ。その生き残り撃墜王たちは、戦後になるや、その働きが報われず、むしろ逆に戦後反戦平和運動の波に洗われるや「狂気攻撃者」にされてしまった。この風潮下、長い沈黙を余儀なくされて来た。その彼らに漸く良き聞き手が現れ、それにより重い口を開くことになった。ここで初めて鬱屈していた心情を解放し戦史証言している。生き延びた撃墜王の幾人のうち何人かが戦後の航空自衛隊に入り、その基礎を作ることに貢献しているとも云う。その5名が何をどう語っているのかは各自が本書で確かめれば良かろう。

 問題は次のことにある。井上、百田の両氏が、大東亜戦争時の航空兵士の活躍ぶりを語ることは大いに良いとして、そのことと目下の自衛隊への無条件エールは直列しないのに無理やりに直列させてすまし顔しているとしたら、そこが怪しい、燻る。目下の自衛隊は創設の由来からも判明しようが自立自存の国防軍ではない。敗戦後遺症なのだろうが、表見的には米軍の、実態的には国際ユダ屋の傭兵として育成されている。そういう自衛隊の戦地への海外派兵が政治日程化しつつある。それが如何に危険な人身御供でしかないのかは子供でも分かる話しである。

 にも拘らず、百田の場合は特に大東亜戦争時の日本兵の活躍ぶりを語りつつ、自衛隊が国際ユダ屋の傭兵として使い捨てされようとしていることに後押しエールしているように見える。ちょっと待て。如何に戦争に負けたとて、今度は当時の敵国の配下軍として御用せしめられるのは話しの筋が違う。それは余りにもお粗末過ぎる、許し難い、英霊の御霊に対する侮辱ではないのか。地下の英霊たちは俺たちの死をそういう風に利用してくれるなと憤怒しているのではないのか。

 思うに、当時の兵士の敢闘ぶりへの称賛は、一方では戦後の反戦運動に生かされるべきであった。これを逆に云えば戦後の反戦運動はそういうものとして構築されるべきだった。史実は逆で彼らは放逐された。もう一方では自立自存の国防軍の再建に向かうべきであった。この道が良い方向かどうか、許されたかどうかは分からない。少なくとも戦後憲法は承知のように反戦不戦平和の道を大胆に指針させている。これにより日本が道を誤ったと云う話しを今日まで聞いていない。

 この両方向なら分かるが、今現在進行中のような当時の敵国の配下軍として、実質は国際ユダ屋の傭兵として使われることこそ愛国の道などと云うのはペテン師の口上でしかない。本書は、この点で、同じようなテーマを扱いながら百田批判をしていない汚点がある。あるいは同様の観点なのかもしれない。であるとしたなら「九仞(きゅうじん)の功を一簣(いっき)に欠く」の評が相応しい。今からでも遅くない、本ブログの観点からの戦士証言に向かいますよう、さすれば相当に意味のある営為であるのにと意見申し上げておく。
 

れんだいこのカンテラ時評№1270

 投稿者:れんだいこ  投稿日:2015年 8月 8日(土)23時00分30秒
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   書評/井上和彦著「撃墜王は生きている」考その1

 勇ましい百田発言が続いており、これを黙らす為に急遽本稿を書き上げ投稿しておく。ちょうど井上和彦著「撃墜王は生きている」を読んでいたところなので、その書評を通じて成敗しておく。2015(平成27).8月、井上和彦著「撃墜王は生きている」(小学館、2015.6.1日初版)を一気に読了した。「一気に読める」書に出くわしたのは久しぶりである。「れんだいこの特攻隊兵士の手記、遺書考その7、歴史への貢献について」を補完する内容になっていることに驚き且つ感謝した。

 ここで、れんだいこの「特攻隊賛美の反戦平和論」を記しておく。この立論はかなり珍しい。世上では「特攻隊賛美」見解が右と左で分かれており、右が賛美し左が叩くべく立論されている。右の賛美論は軍事防衛国際責務論に繋がつている。左の批判は反戦不戦平和論に繋がっている。

 しかしながら私には解せない。奇妙とさえ思っている。この理論を目下の政治情況下でトレースすると、「特攻隊賛美論」の右が、国際責務論でもって、自衛隊を、かっての特攻隊が戦った当の相手の国際ユダ屋の配下軍の使い捨て駒に奉仕させようとしている姿が見えてくる。彼らの「特攻隊賛美」のお里が知れる話しであるが、彼らは、国際ユダ屋への奉仕による利権を先にしており特攻隊をダシにしているのではなかろうか。

 他方、「特攻隊叩き論」の左は、反戦不戦平和論でもって、自衛隊を、そのような役割での使い捨て駒にさせようとしている政治の動きに対して反対している。それは良いのだが、それならそれで国際ユダ屋相手に先達的に戦った特攻隊を見直そうとする動きが出ても良さそうなのに出てこない。「特攻隊のサムライ涙」を理解すべきなのに相変わらずの批判に忙しい。こちらも案外と国際ユダ屋へ裏から奉仕しているのではなかろうか。それ故に特攻隊の功を敢えてムシしているのではなかろうか。

 私には「特攻隊賛美の反戦平和論」こそが自然である。なぜこうならないのかが訝しい。冒頭のリンクブログで述べたように、特攻隊兵士の犠牲が決して「無駄な自殺攻撃」ではないこと、彼らの必殺特攻が相当の成果を挙げたことにより恐怖を与え、待ち受ける日本統治の手強(ごわ)さを教えたと云う意味での「その後の歴史抑止力」として働くことになったこと、そういう「尊い犠牲」であったと知り、彼らの死を犬死視してはならないと指摘した。これが正しい歴史の継承の仕方であると自負している。

 本書は、これを裏付けるに十分な戦闘機パイロットの戦闘証言記である。「5名の生き残り撃墜王の証言」を下に、戦後反戦平和運動論の主要な理論であるところの「そもそも無謀な戦争論、特攻隊無駄死、蛮勇論」のウソを暴いている。これが本書の第一功績である。(以下、「5名の生き残り撃墜王の証言」の概略をスケッチしておこうと思うが、ここでは省く)。

 本書は、かの大東亜戦争末期の昭和天皇の終戦勅語放送時でさえ、次第にジリ貧に追いやられながらもなお敢闘精神旺盛だった様子を活劇描写している。これが本書の第二功績である。れんだいこも含めて大方の者がそうであろうが、そういう史実につき不覚にも知らないまま今日まで過ごして来ているのではなかろうか。仮に反戦平和を語り続けたとしても、国際ユダ屋仕立てテキスト通りの範疇で口パクしているのではなかろうか。しかしてそれは、終戦後の日本を占領統治したGHQのウォーギルト.インフォメーション.プログラム(War Guilt Information Program、略称WGIP)による情報統制&洗脳策のワナに入れられている。かく認識する必要がある。

 WGIPテキストでは、戦争は常に国際ユダヤ側の正義の聖戦とこれに抵抗する側の野蛮戦との戦いである。第二次世界大戦も又同様に自由主義陣営の彼らと、これに抵抗するファシズム陣営の戦いであった。自由派の米英仏を主とする連合国が勝利し歴史を進歩させた云々。これを進歩主義史観と云う。典型的な「勝てば官軍、負ければ賊軍」論理であるが、この理論がシャワーの如く浴びせられ洗脳されている。

 故に、ファシズム陣営のすること為すことが無謀であり、侵略であったと断罪されている。この総括に立って、将来に向けて二度と楯突かないと云う意味での恭順不戦論、反戦平和論が唱えられる。過去に向けて戦犯責任追求論、損害賠償請求論へと向かう。他方、手前たちの行為は仮に同じことをしていても、あるいはもっと酷いことをしていても常に免責される、ないしは称賛される。原爆責任も同様で、終戦を早めたのだから逆に感謝せよと居直ることになる。極東裁判は、この見地からの敗戦国断罪、A級戦犯処罰、その見せしめの一大観劇デモであった。

 れんだいこの観るところ真実はこうである。お仕着せメガネを外してみれば、第一次、第二次世界大戦とは、近代以降の西欧各国王朝打倒革命に続く、波に乗る国際ユダ屋の世界支配を廻るユダ屋側と反ユダ屋側の戦争だった。ユダ屋側が勝利の美酒に酔い、その日より今日までますますのユダ屋ワールド造りに向かっている。それが良質のものであれば良いのだけれど、戦争を何よりの好物とし、世界を金融支配し、医食法をコントロールし、人間を次第に下種なものにし、地球の生態系を滅ぼしつつある。しかも、その危機を危機になればなるほど歩みを深める方向で穴掘りし続けている。原発が象徴しているが他の何もかもがそうである。

 故に我慢ならない。生ある限り今現に進もうとしている道の恐き危なきことを連打太鼓し、我々が歩むべきレールを敷き代えるよう告発し続けたい。
 

れんだいこのカンテラ時評№1269

 投稿者:れんだいこ  投稿日:2015年 8月 3日(月)21時52分33秒
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  【大正天皇実録考その12】

 1912(明治45)年、33歳の時、7.18日、明治天皇重体。7.24日、皇太子がお見舞いに参内。7.28日、桂太郎ら訪欧使節団が天皇危篤の報を受け急遽ペテルブルグから帰国に向かう。 7.29日、明治天皇崩御(享年59歳)。

 7.30日、皇室典範第10条「天皇崩する時は皇嗣即ち践祚(せんそ)し祖宗の神器を承く」に従い、嘉仁皇太子が34歳で践祚即位、123代皇位に就かれた(これにより以下、皇太子改め大正天皇ないし単に天皇と記す)。裕仁親王が皇太子となった。

 その夜、「御政事向きのことにつき十分に申し上げ置くこと必要なり」として、首相・西園寺公望、山県有朋が大正天皇を訪問。まず西園寺が「十分に苦言を申し上げた」のに対して「十分注意すべし」と返答している。山県は「僅かに数言申し上げたるのみ」であった。両者には緊張関係が介在していた。皇太子時代の「山県有朋嫌い」は天皇時代にも続き、大正天皇は最終的に山県派によって押し込められることになる。この緊張関係の裏事情を紐解かねば政治論が深まらない。

 翌7.31日、朝見の儀が執り行われた。政府関係者の居並ぶ中、天皇皇后がお出ましになり、天皇が「朕今万世一系の帝位を践(ふ)み、統治の大権を継承す。祖宗の皇ぼに遵(したが)い憲法の条章に由り、これが行使を誤ることなく、以って先帝の遺業を失墜せざらんことを期す」と勅語を朗読。

 大正と改元された。改元の詔書として次のように宣べられている。

 「朕(ちん)、菲徳(ひとく)を以て大統を承(う)け、祖宗の霊に詰(つ)げて万機の政(まつりごと)を行ふ。茲(ここ)に先帝の定制に遵(したが)ひ、明治四十五年七月三十日以後を改めて大正元年となす。主者(しゅしゃ)施行せよ」。

 大正とは、公式には発表されていないが、五経の一つである易経の「大享以正、天之道也」、春秋公羊伝の「君子大居正」を出典としている。大正天皇実録によれば大正のほかに天興、興化の候補があり、枢密顧問が審議した結果、易経の「大享以正、天之道也」に由来して大正が選ばれたことが判明した。天皇の在位期間である1912.7.30から1926.12.25までの15年間が大正時代となる。

 8.11日、桂太郎ら帰国。 8.13日、大正天皇は、明治天皇の遺業を継ぐにあたっての勅語を元老5名(山県、大山、桂、松方、後に西園寺)に対し下す。桂太郎が内大臣兼侍従長に任命される。この年の12.5日、西園寺公望(きんもち)が元老に加わり「最後の元老」となる。

 9.4日、天長節(天皇誕生日)だった11.3日を「明治天皇祭」と改める。 9.13日、明治天皇の御大葬が青山葬場殿で執り行われ、翌日、伏見桃山陵に奉葬する。(「明治天皇の「大喪の儀」」)。この日の午後8時頃、乃木希典&静子陸軍大将夫妻が殉死している。大正天皇は追悼する漢詩を3首詠まれている。「懐乃木希典」と題された漢詩は次の通りである。「平生忠勇養精神 旅順攻城不惜身 颯爽英姿全晩節 淋漓遺墨々痕新」。堂々たる歌いっぷりであり、大正天皇の漢詩造詣が深かったことが判明する。

 天皇は践祚以来、午前6時起床、8時半に大元帥の軍服を着用して表御所に出御、正午まで執務する身となった。生活が激変し皇太子時代のように自由闊達な行動がとれなくなった。その程度のことであれば甘受できる窮屈だったであろうが、甘受できないものが立ち塞がった。それは、政治路線の鋭角的な対立であり、その前途多難さから来る消耗であった。大正天皇が、出雲王朝御代の善政を手本とする施策を講じようとするたび、元老・山県を筆頭とする国際ユダ屋派が「何かにつけ先帝を云々」する日々が続くことになった。

 天皇派は国内的には殖産興業、対外的には諸国親和を目指し、国際紛争解決手段としての武力、戦争による道は採ろうとしなかった。しかしながら時代は、日本の帝国主義国化、国際紛争解決手段として武力、戦争による解決の道に進みつつあった。何のことはない、2015年の今、我々に突きつけられている情況となんら変わらない。

 これに棹差そうとした大正天皇が如何なる茨の道を余儀なくされ、理不尽に押し込められるのか。これが大正天皇史となる。その大正天皇史は大正時代史の中に記そうと思う。その大正時代史を理解する為の前提として必要になる嘉仁皇太子論をここに記したつもりである。お役に立てば良いのだけれども。(このシリーズは本稿で一応の完結とする)
 

れんだいこのカンテラ時評№1268

 投稿者:れんだいこ  投稿日:2015年 8月 2日(日)19時36分27秒
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  【大正天皇実録考その11】

 1911(明治44)年、32歳の時、10月、嘉仁皇太子は戦艦「富士」に坐乗し、豊後水道南方海面での第1第2艦隊の演習を視察する。11月、先帝陵参拝と第4・第16師団対抗演習を目的とする京都、大坂、兵庫巡啓に出向いている。皇太子が次第に軍部御用に狩り出されていることが分かる。しかして皇太子がそういう日本づくりに異論を持っていたのは見てきた通りである。

 この時の11.20日、学習院時代の旧友・桜井忠胤(ただたね)邸を予告なく訪れ、恐懼する桜井に「今度は軍人となって来たのだから恐縮だの恐れ多いだのは止めにしてくれ。そう慇懃では困る」と云い、昔語りしている。その後、「桜井、演習は9時からだからその間又遊びに来た」と再度来訪し、邸内を勝手に歩きながら、「桜井、今日は恐縮だなどは一切止せよ。お前は学校に居る時、俺と鬼ごっこの相手ではないか。今はここに住んで何をしているか。大層色が黒くなったではないか。子供は幾人あるか」などと語った挙句、「どうも騒がしたなぁ桜井、又来るよ」と言い残して立ち去っている。

 この時、時計の針は既に9時を廻ろうとしており演習遅刻は免れない。嘉仁皇太子にとって、学習院時代の旧友訪問が窮屈な業務日程の中でのほんの一瞬の息抜き時間であったとすれば、如何なる思いで軍事演習精勤を余儀なくされていたのか胸中察するに余りある。

 1912(明治45)、33歳の時、1.1日、南京に中華民国臨時政府樹立。孫文が臨時大総統に就任し建国を宣言する。2.12日、清朝の宣統帝(愛親覚羅溥儀)が退位し清朝が滅亡する。ようやく眠れる獅子たる中国の覚醒が始まり紆余曲折の末に毛沢東指導の中共政権に達するまで定向進化する。この流れに日本がどう関わり関わらないのか、単に日帝侵略論では解明できない歴史の流れを見て取ることができるが本稿のテーマではないので問わない。

 3.27日、12度目の巡啓としての山梨行啓。13度目の巡啓としての4.22日より滋賀県と三重県方面を行啓。参謀本部旅行演習の見学に出かけている。この時、演習の合間に蕎麦屋に入ったところを地元新聞に報ぜられている。4.14日、 豪華客船「タイタニック」が氷山に激突して翌日沈没。5.8日、皇太子は、東宮御所に参上した原敬に対し、「行啓に際し新聞紙に種々のことを登載されて困る」旨漏らしている。5.17日、大隈重信邸並に早稲田大学に行啓。渋沢栄一が大学基金管理委員長として大隈邸に於て拝謁している。関係者が大隈邸で晩餐の饗を受けている。

 これが嘉仁皇太子が大正天皇として即位する前のご様子である。これほど多忙な巡啓ぶり、そつなくこなすどころか大人気であったことをみれば、皇太子をして「幼少より生来の病弱説、粗脳説、脳障害説」を云う者はよほど云う者の方が粗脳であろう。普通に考えて丈夫でなければ勤まる筈がないではないか。

 連中は、虚説であるのが自明だろうに、その虚説に拘っている。仮に皇太子時代は置いといて大正天皇の御代になると症状が事実だったとして、そうであれば天皇としての強度ストレスにより発症したものとみなすべきではなかろうか。通説は大正天皇押し込めを正当化させるためのトリック理論に過ぎない。

 ところで、「幼少より生来の病弱説、粗脳説、脳障害説」を説く輩は不思議と第二次世界大戦論を正義の連合国派と不正義の枢軸国派の戦争だったとする論、ユダヤ人数百万人犠牲ホロコースト論、田中角栄諸悪の元凶論とほぼ百%の確率で同衾している。こうなると、連中は、国際ユダ屋メーソン仕立ての政治テキストの請け売りをしているに過ぎないと云うことになる。メーソンテキストを鵜呑みにしかできない粗脳連中が、そう唱えることが処世法上有利と風向きを読み曲学阿世しているに過ぎない。かく構図を据えるべきではなかろうか。

 こう理解することで一つの不思議が解けた。即ち定年まで何十年にもわたって学問をして来た者が少しも学者らしくない風貌にお目にかかることがあるが、どうもオカシイ。それはメーソンテキストの口パクをしているだけだから脳が働かず、結果的に却って貧相に陥った故ではなかろうか。その代表的例は原発大丈夫派のヒゲヅラ族である。アメリカにおんぶに抱っこ論を唱える幼稚顔の政治学者もそうである。本来は稽古ごと全般と同じで精進すればしただけ時間を掛ければ掛けただけ重厚になり、その苦みばしった風情と共に腕上がりしなければオカシイ。
 

れんだいこのカンテラ時評№1267

 投稿者:れんだいこ  投稿日:2015年 8月 1日(土)19時35分17秒
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  【大正天皇実録考その10】

 嘉仁皇太子の巡啓はその後も続く。1908(明治41)年、7度目の巡啓として4月*日より15日間、山口、徳島方面行啓。8度目の巡啓として9月から約1ヶ月間、東北各地を行啓している。この時の様子として次のような逸話がある。

 「丁度その折も折、明治41年の秋、東宮殿下(大正天皇)が奥羽史蹟御調査のため東北地方に行啓中であられたが、藤波侍従の配慮もあり御召列車が盛岡から仙台に赴かれる途中、駅でない松島村根廻新潜穴の下流橋上に1分間停車されることになった。殿下は御陪乗の寺田知事に対し、『天下の大工事であるから中途挫折等のことなく竣工せしめよ』とのお言葉を賜ったのである」(「鎌田三之助翁顕彰碑」)。

 この「1分間停車」が功を奏し、東宮殿下(大正天皇)のこのお言葉によって、あわや難工事過ぎて挫折かと思われた工事が見放されることなく遂行されることになった。次のように記されている。

 「元禄以来 幾度か企図して未だ果さなかった干拓工事が鎌田氏の熱誠あふれる努力により遂に貫徹したのである。殊にこの大工事は政府の補助金に頼らず、勧業銀行からの貸付金90万円によって自力で成就したものである(組合費と新干拓地の収入で償還した)。明治43年12月26日の通水式には知事をはじめ1千人が参列し、元禄穴川の通水以来212年目の感動に満場しばし声なく感激の涙をおさえるのであった」。

1909(明治42)年、9度目の巡啓として9月から約1ヶ月かけて岐阜、北陸を巡啓。10月、韓国皇太子と数回の交流が認められる。

 10.26日、伊藤博文が暗殺されている。伊藤は、満州・朝鮮問題についてロシア蔵相ウラジーミル・ココツェフ(ココフツォフ)と非公式に話し合うためハルビン駅を訪れた際、朝鮮民族主義活動家の安重根(アンジュングン)に射殺された(享年69歳)。ロシア官憲が安重根、禹徳淳、曹道先、劉東夏を拘束し身柄を日本政府に渡した。日本政府は関東都督府地方法院で裁判に付し、翌2.14日、安を死刑、禹を懲役2年、曹及び劉を懲役1年6か月に処する判決を下している。 伊藤暗殺が朝鮮民族主義活動家の犯行なのか国際ユダ屋による謀殺なのかにつき解明されていない。

 11月、嘉仁皇太子が陸海軍中将に昇進するとともに参謀本部付きとなる。これにより毎年4月に全国各地で行われる参謀本部参謀旅行演習の見学が半ば義務づけけられることになった。

 1910(明治43).31歳の時、1.9日、国技館に行啓、相撲を御覧。5月、毎週火・金曜日に参謀本部へ通う生活が始まる。皇太子はこの時軍事研究を講学されるが、東宮武官・千坂智次郎は次のように証言している。「陸海軍の御用掛等が進講する軍事上のこと等は、恐れながら豪も御会得あらせらるるの実を見る事を得ざる」。10度目の巡啓として9月から約*日間、三重、愛知方面行啓。この頃、軍事行啓相次ぐ。

 1911(明治44).32歳の時、11度目の巡啓として8月から約1ヶ月かけて北海道を行啓。この巡啓で沖縄を除く日本全国をくまなく歴訪されたことになる。

 9.17日、皇太子が北海道行啓から帰ると、原敬が東宮御所を訪問している。北海道行啓の最中の8.25日に第二次桂太郎内閣が総辞職して、8.30日に第二次西園寺内閣が組閣され、原は内務大臣に返り咲いている。原は日記に次のように記している。

 概要「殿下例の如く椅子に寄るを許され、且つタバコなど賜りて御物語あり。如何なる方針なるやとの御尋ねに付きつぶさに言上したり。それより種々の御物語ありて退出したり。今日に始まらぬことながら殿下は毎度懇切に閣員等を遇せらるるは恐懼のほかなし。又当秋の大演習には赴くかとの御尋ねにつきその心得なる旨申し上げ、且つ殿下にも行啓あるやに御尋ね申し上げたるにその御含みらしきもこのことは秘し置きくれよと繰り返し御話しありたり」。

  原氏は著書「大正天皇」の中で、「皇太子は、気心の知れた原に思わず本音を漏らしてしまい、あわてて何度も『このことは秘し置きくれよ』と念を押したように思われる」と解している。この下りを重視するとして、それでは、この時の皇太子の漏らした本音とは何であったのだろう。ここが肝心である。

 れんだいこが思うに、陸軍大演習を巡って論じているが、その際に強烈な軍部批判並びに軍事色を強めつつあった日本の存り姿に対しての困惑を吐露していたのではなかったか。大正天皇論を正しく述べるとするならば、ここがキモにならざるを得ないのだけれども。
 

れんだいこのカンテラ時評№1266

 投稿者:れんだいこ  投稿日:2015年 7月30日(木)19時33分42秒
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  【大正天皇実録考その9】

 ここで、 日韓皇太子友誼考をしておく。その前提として当時の日韓史を素描しておく。(略) 1907.7.20日、韓国統監・伊藤は、純宗即位を機に高宗の第7男子にして10歳の李垠(イ・ウン)を皇太子にさせた。伊藤は、日韓親和を図るため嘉仁皇太子の韓国行啓を発案した。明治天皇は、韓国内の反日義兵運動による治安悪化を理由に難色を示したが、伊藤が説得に努めた結果、既に東宮輔導を辞任していたが皇太子の全幅の信頼を得ている有栖川宮の同伴を条件に承諾を与えた。

 1907(明治40)年、27歳の時、10.10日、嘉仁皇太子は.6度目の巡啓にして初の外遊となる韓国行啓に向かった。韓国行啓には桂太郎、東郷平八郎ら陸・海軍大将らが随行し、広島宇品港で艦「香取」に乗艦、10.16日、韓国仁川に上陸した。仁川では伊藤、純宗、李垠らが出迎え、お召し列車で京城の南大門(現在のソウル)に到着した。当時、発行されていた日本語新聞「朝鮮新報」が、嘉仁皇太子が陸軍少佐の軍服姿で起立し、脱いだ帽子をテーブルの上に置いた肖像写真を二段抜きで掲載している。これが新聞紙上に皇太子写真が掲載された初事例となる。以降、韓国での掲載が先例となって日本国内でも皇太子の肖像写真が公開されるようになった。

 皇太子は17日-19日までソウルに滞在した。10.19日、皇太子が昌徳宮内の秘苑を訪れ、韓国皇帝(高宗に代わって即位した純宗)皇太子・李垠(イ・ウン)と会見している。皇太子が有栖川宮のカメラを李垠に見せ、レンズを日本関係者らに向けながら、「ここより覗き見られよ。彼ら皆な逆さまになりて並べるが見ゆるに」と声を掛け、笑みながら李垠にカメラを覗かせている。二人は忽ち兄弟のように打ち解け、4日間の滞在中、李垠(イ・ウン)が終始接伴するという良好な関係をつくった。 F.R.ディキンソン著「一躍五洲を雄飛す 大正天皇」が、嘉仁皇太子の皇室外交としての韓国巡啓を次のように評している。

 「東宮韓皇と御対顔」か次のように評している。「この日本皇室が史上初めて負った責任を嘉仁が輝かしく果たした」。

 10.20日、南大門からお召し列車で仁川に向かい軍艦香取に乗船。10.21日、慶尚南道の鎮海湾に寄港し湾内を巡覧し韓国行啓を終了している。その帰路、南九州・佐世保に上陸。長崎、鹿児島、宮崎、大分。11.9日、大分から高知の須崎に上陸して高知へ、須崎から横浜へ、35日ぶりに帰京している。

 1907年、12月、11歳の李垠(イ・ウン)が伊藤博文公に伴われ来日、鳥居坂御用邸(麻布六本木)で人質生活をし始める。これを伊藤博文らが扶育する。皇太子は韓国語の学習を始めている。武田勝蔵の回想によれば、「度々韓太子に会ふから少し朝鮮語を稽古して見たいが何か本はあるまいか。あれば侍従まで届けて貰い度い」と述べ、李垠に会うたびに「今日の話しの文句を朝鮮朝鮮語のハングル文字で書いて、それに発音を附けて訳文と共に差し出すように」と翻訳官に命じていたことが伝えられている。また、李垠と一緒にビリヤードをしたり、誕生日のお祝いを贈ったりしている。

 明治天皇や昭憲皇太后は文具や書棚、玩具などを贈っている。明治天皇は活動写真機やクリケット用具なども与えられたとのことである。北白川宮成久、久邇宮鳩彦、久邇宮稔彦らが日本語学習を援助し、鴨猟にも同行している。要するに李垠(イ・ウン)を皇室の一員として迎え育てたことになる。

 これより何をどう窺がうべきだろうか。少なくとも、明治天皇、昭憲皇太后、嘉仁皇太子を始めとする当時の宮中が、韓国皇太子に対し属国属民視する横柄な態度を執らず後々まで続く親交を結んでいることが垣間見えるであろう。嘉仁皇太子は格別なほどに彼の兄たり父たりならんとしていたように思える慈愛を見せている。

 これをどう評するべきか。れんだいこに見えてくるものは、政治は日主韓従を強めつつあったが、宮中は宮中の論理で日韓皇室外交の型を保持していた史実である。その主役が嘉仁皇太子であった。その嘉仁皇太子が目指す政治が古代出雲王朝御代の大国主の命政治であった。大国主の命政治であれば日韓友好親善は当たり前に見える。逆は逆である。
 

れんだいこのカンテラ時評№1265

 投稿者:れんだいこ  投稿日:2015年 7月29日(水)21時02分22秒
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  【大正天皇実録考その8】

 嘉仁皇太子は、巡啓の際、気さくに声を掛けられ「能く御下問遊ばす皇太子」ぶりを発揮している。これに対し、「思ったことをすぐに行動に移したり口にしたがる」と悪評しているものが多い。しかし悪評する者の方が暗愚なのではなかろうか。「生の肉声をみだりに伝えるのは不敬である」という威厳的な考え方が微塵もなかったこと、皇室と人民との接近場面を極力増やそうとしていること、「平常の有り様をお目撃なりたきご趣意」に基づくものであった故の「質問多発」であったことを踏まえれば、「威厳よりも親しみを抱かせる性格の御方であった」と批評するのが筋ではなかろうか。

 「面白い」、「国益だなぁ」、「至極便利なものだな」などの感想を発し、そのやり取りが、明治天皇の行幸や巡幸では全くありえなかったことで驚きを持って迎えられている。その会話の端々に歌人能力同様の感性、判断力の良さ、知性が感ぜられる。ならば、「好奇心、探究心、向学心が強く、且つ天真爛漫的な茶目っ気があり云々」と好評的に解するべきではなかろうか。実際、皇太子時代から巡啓に同行するなど近しい立場にあった原敬は、後に語られる大正天皇像とは大きく異なる「気さくで人間味あふれる、時にしっかりとした」人物像を原敬日記に記している。

 一例として、病院に立ち寄れば周りの者にも気安く話し掛け、患者に近寄って症状を尋ね、いたわりの言葉を掛けている。「患者は絶えず感涙に咽びた」なる肉声が報じられている。松茸狩りの際の良く取れるヤラセを見抜き、それを質して関係者を慌てさせている。武術観戦の際に、単に観戦するだけでは物足りず自分も試すなどしている。これらを奇行と解すより「愛すべき稚戯」と受け取るべきではなかろうか。

 ブドウ園を突然訪問した際に、「ブドウ酒はアメリカにもあるか」、「如何にして醸造するや」、「日本人が己れ一箇の資力にしてこれだけの事業を成せしは感心の至り成り」との御言葉を遺している。「英語の教授は不完全と思うがいかがか」と質疑し、知事が「洋人を雇い置きますれば完全致しまするなれど」と答えたのに対し、すかさず「それなら雇えば良いではないか」なる遣り取りが伝えられている。

 皇太子は自主的な意表の行動に出ることが多く、その分自由に振舞う姿があった。人力車に乗ると、「(お定まりのコースに構わず)車夫に命じて意のまま進ませた」ので周囲は大狼狽したことが伝えられている。新潟滞在の際には、深夜に供の者が寝静まったのをみはらかってそっと抜け出し、付近の白山公園散歩に出ている。警備の者が必死になって捜索し、ようやく見つけて近寄ると、皇太子は平然と「なにこっそり出たのだから心配には及ばぬ」と話されている。こうしたことが何回かあるも知事や警部長の責任問題は発生させていない。

 1903(明治36)年、6月、有栖川宮が東宮輔導を辞任し後任として斎藤桃太郎が取り仕切るようになって以降、有栖川宮時代の自由さが失われ、天皇行幸に準じた規制が再び敷かれるようになる。予定コースが外れないようにスケジュールが厳格になり、鉄道は全行程にわたって特別仕立ての御召列車となり、ホームでは入場者が厳しく制限された。沿線や沿道での最敬礼の仕方も細かく定められるようになった。この頃から巡啓に地方視察の意味が付与されるようになり軍事演習見学が加わるようになる。

 但し、皇太子の気さくな発言は相変わらず続いている。松山の城山では知事や旅団長に「かの山は何と云うぞ」、「かの地はいかなる歴史を有するぞ」、「余が通行せしはいずれぞ」、「この山の眺望はすこぶる余が意にかなえり。今回の行啓、余は未だこれほどの景色に接せず」との言葉を遺されている。道後温泉では、「この菓子はこの地の名物なりや」等々の御言葉を遺している。

 1907(明治40)5~6月、鳥取、島根を回っている。天皇の名代としての初の公式地方旅行となったが、京都から島根へ入り出雲大社を参拝している。その後、予定外であったが皇太子の強い意向で軍艦鹿島で浜田から隠岐へ向かい、後醍醐天皇の行宮の跡を見て回られている。この時のことかどうか分からぬが、概要「皇太子は御召列車に乗っても、名所旧跡等につきその由来を御諮問あり、先から先へとお尋ねとなるより、時としては知事が拝答に困らしめるも少なからず」とある。

 もうこれぐらいの確認にしておこう。明治天皇や昭和天皇とはひと味もふた味も違う、規制とか束縛を極力控え、気さくに国民の中に入って行って皇室と国民の絆を深める人間み溢れる天皇像が浮かび上がってこよう。補言しておけば平成天皇ご夫妻もこの大正天皇ご夫妻に近いのではなかろうか。
 

れんだいこのカンテラ時評№1264

 投稿者:れんだいこ  投稿日:2015年 7月28日(火)10時08分10秒
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  【大正天皇実録考その7】

新婚巡啓が円滑に取り運んだことに気をよくしてか、明治天皇の了承を得て地方巡啓が本格化する。次第にぶりがつき、やがて引く手あまたとなり、仕舞いには沖縄を除く日本列島を隈なく足繁く訪問することとなった。皇太子時代の12年間にほぼ1、2年に1回のペースで12回の行啓を行っている。しかも1、2ヶ月に及ぶ長期のものもあった。以下、その概略を確認しておく。これの詳細は「大正天皇の足跡履歴」に記す。

 この他軍事行啓や国技館行啓、早稲田大学行啓等の特定行啓をこなしている。皇太子は体調を崩して寝込むことはなかった。この嘉仁皇太子の巡啓史そのものが大正天皇病弱論を打ち破るであろう。それは、嘉仁皇太子の歌人能力そのものが大正天皇粗脳論を打ち破るのと同じである。

 1度目の巡啓/三重、奈良、京都方面/明治33.5.23日から10日間。2度目の巡啓/北九州一円方面/明治33.10.4日から50日間。3度目の巡啓/北関東、信越方面/明治35.5.20日から18日間。4度目の巡啓/和歌山、瀬戸内海方面/明治36.10.6日から24日間。5度目の巡啓/鳥取、島根方面/明治40.5月から*日間。6度目の巡啓/韓国、南九州、高知方面/明治40.10.10日から35日間。7度目の巡啓/山口、徳島方面/明治41.4月から15日間。8度目の巡啓/東北方面/明治41.9月から約1ヶ月間。9度目の巡啓/岐阜、北陸方面/明治42.9月から約1ヶ月間。10度目の巡啓/北海道方面/明治44.8月から約1ヶ月間。11度目の巡啓/山梨方面/明治45.3.27日から約*日間。12度目の巡啓/滋賀、三重方面/明治45.4.22日から約*日間。

 嘉仁皇太子の巡啓を企画推進したのが東宮補導・有栖川宮であった。「少数の東宮職関係者と相対するだけの狭く堅苦しい空間から皇太子を解き放ち、一般の人々が暮らしている世間に触れさせる」との考えに基づいていた。それは有栖川宮自身の経験に基づくものであった。即ち、有栖川宮がロシア皇太子ニコライ一行を案内した時、ニコライ一行が各地の人々や風俗に接して和合する姿を目の当たりにしている。この時の教訓を皇太子の巡啓に生かそうとしていた節がある。皇太子の巡啓が好評で次第に大掛かりなものが企図とされていくことになった。学事が停滞するとして東宮職は反対したが、東宮輔導・有栖川宮が、歴史・地理の実地見学という大義名分を押し立てて明治天皇の承認を受け実現していくことになった。

 嘉仁皇太子の巡啓が、民間天皇をアピールした戦後の昭和天皇の巡幸、継宮明仁(つぐの宮あきひと)皇太子(後の平成天皇)のそれの先取りとなったという点でも意義が高い。なお、明治30年代より明治天皇の健康が優れなくなり、巡幸が控えめになったのと対照的に皇太子の巡啓が盛んとなっているという時代の流れも見ておかねばならない。これらの巡啓を通じて鉄道が開業し、電気の点灯、電話、舗装道路など社会資本のインフラ整備が進んだことも銘記されるべきであろう。「この旅行から、歓迎行事の出し物に大掛かりな郷土芸能を見せることも恒例となった」。

 1902(明治35、23歳).5.1日、有栖川宮は、信越北関東大巡啓に先立って、東京の自邸に各知事を集め、全部で20カ条からなる次のような訓示を与えている。

 概要「行啓先各地において、平常の有り様を御目撃ならせたき御趣意なれば、御趣意に背かざるよう、地方官にて厚く注意これありたきこと」。

 他にも概要「大掛かりな奏送迎は不要、過度の歓迎を控えるよう、通御の道筋も通行の妨げにならない限り通常の通行を制止するに及ばない」と通達している。「天皇行幸に準じた準備や規制を撤廃し、皇太子が自然に振舞うことのできる素地を作り出そう」として心を砕いてい入る様が見て取れる。これにより、特別仕立てのお召し列車ではなく一般の人々が乗る普通列車を利用して移動する区間が多くなった。巡啓日程が容易に変更され、滞在が延びたところもあれば予定変更で立ち寄らなかったところもあった。軍服と平服を適宜取り替えつつ巡啓が続き、軍隊司令部、名所旧跡の他に最新の殖産興業的産業施設への立ち寄りが為されているのもユニークであった。
 

れんだいこのカンテラ時評№1263

 投稿者:れんだいこ  投稿日:2015年 7月27日(月)12時02分45秒
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  【大正天皇実録考その6】

 前稿で大正天皇の歌人能力が格段に高いことを確認した。だとすれば大正天皇の政治能力も実は高かったと推定することも可能ではなかろうか。この仮説を提起し大方の賛同を得たいと思う。これが本稿の狙いである。

 思うに、嘉仁皇太子が大正天皇として即位後、徐々に身心を病んでいったのは、云われるような生来の持病によるものではなく、即位後の政治的軋轢の中で政略的に身心を傷めた故ではなかろうか。大正天皇生来の病弱論、粗脳論は、この政略的絞殺を隠蔽する為の煙幕理論に過ぎないのではなかろうか。れんだいこは、当時に於ける国際ユダ屋呼応勢力が大正天皇政治に立ち塞がり、続いて無理やり「押し込め」、最終的に毒殺まで追い込んだのではないかと仮説している。

 それでは、大正天皇はなぜ押し込められたのか。これに対する解が必要であろう。私はこう推理する。それは両者の政治の型が全く違う故であった。大正天皇の御代に於いて、天皇派と反天皇派の両者間には非和解的な道しか残されていなかった。これを説明すると、大正天皇派は、原日本古来の出雲王朝的御代の政治を理想としていた。それは大国主の命政治を手本とする。戦後では田中角栄政治であり、国内的には殖産興業、対外的には国際友好親善、国際協調である。即ち戦後憲法に具現しているような「平和の傘の下での経済成長政治」であった。

 ところが、反大正天皇派の政治は国際ユダ屋の指令のままに蠢く売国政治であり、アジアの盟主としての日本帝国主義化政治であり、国内的には重税、対外的には戦争政策である。(何のことはない、現在の日本が再び誘導されつつある道である。こたびはアジアの盟主にはなれず従僕として使い捨てさせられようとしているけれども) 金血鬼/国際ユダ屋の采配振るうところ、いつでもどこでもこうなる「国際ユダ屋の傘の下での戦争経済政治」であった。

 この抗争は承知の通り国際ユダ屋が勝利した。故に、大正天皇の存在そのものが歴史的に押し込められた。故に、近現代天皇に於いて明治天皇、昭和天皇には誕生日が慶賀され祝日とされているのに独り大正天皇は蚊帳の外に居る。

 これに明らかなように大正天皇が祀られること、語られること、その御歌が語られることが格段に少ない。仮に語られたとしても、読み聞くするに耐えられない罵倒論が主流であり通説である。目下のTPP交渉で、国際ユダ屋が著作権棒丸出しにしているので、著作権の正体が分かろうと云うものだが、こういう手合いが決まって強権著作権を振り回す癖があるのがお笑いである。著作権に対する態度を見るだけで、どちらの陣営の者か、あちらの陣営連中のど阿呆さが分かる。

 ここで気づくことがある。してみれば、これまでの大正天皇実録非公開、その後の公開時の黒塗りは何の為だったのだろうか。黒塗りが解除されてはっきりしたことは、この記述なら黒塗りの必要がなかっただろうと思える記述であるのに黒塗りにされてきたことである。どちらかと云うと、大正天皇の好印象に繋がる下りが黒塗りにされている。

 と云うことは、大正天皇の偉丈夫さ、類い稀な歌人能力、それに陸続する政治能力の高さを隠蔽する為に、敢えて非公開、黒塗りしてきたのではなかろうか、と窺いたい。国際ユダ屋には「病弱にして粗脳な大正天皇論」の方が都合が良く、それが、後の「大正天皇押し込め」、享年47歳での毒殺を正当化させる為の伏線になっているのではなかろうか。「壮健にして英邁有能な大正天皇論」では都合が悪過ぎるのであろう。

 当時も今も、国際ユダ屋の敷く好戦政策を請負うことで立身出世を企む奸族がいる。これが幕末の黒船来航以来の日本政治の宿亜である。大正天皇はこの連中にヤラレタ。即位以来、国内的にも国際的にもハト派日本の創出を企図しご苦労されたが、これに奸族が立ちはだかり、押し込められ、最後は毒殺されたのではないのか。この最大なる不敬事件を引き起こした連中が、昭和の御代になって不敬事件棒を振り回すことになる。そのご都合主義ぶりは何をか云わんやではなかろうか。

 この大正天皇の評価で、妙なことにウヨとサヨが共通している。試しに社共の大正天皇論、右翼のそれを聞いてみればよい。他にもある。南京虐殺事件等に関しては議論百出するも、国際ユダ屋がテキスト化しているホロコーストに対する無条件恭順がそうである。ロッキード事件の際の田中角栄の政界追放論も挙げられよう。右翼と左翼が共通するメガネを持つ例はそう多くはない。そういう例の一つに大正天皇論がある。これはこのように理解するよう操作され、それに恭順しているに過ぎないことを示している。
 

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