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れんだいこのカンテラ時評№1262

 投稿者:れんだいこ  投稿日:2015年 7月26日(日)16時05分1秒
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   【大正天皇実録考その5】

 ここで大正天皇の歌人能力に言及しておく。歌そのものについては「大正天皇のお歌考」で考察する。結論から申せば、大正天皇の歌人能力は格段に高い。そういう訳で、大正天皇の御歌を総合的に研究してみたいと思う。浅学菲才ではあるが次のジャンル別に仕分けしてそれぞれの名句を味わいたい。「新年の年賀歌」、「時局&政情歌」、「国見&国憂歌」、「軍事&戦争歌」、「情景&叙情歌」、「自然観察歌」、「人生歌」、「家庭団欒&子供思い歌」、「恋歌」。なお且つ、節子妃(さだこ妃、後の貞明皇后)の歌人能力もこれまた格段に高いことに注目し、両者の掛け合い歌をも紐解いてみたい。いつのことになるかは分からないけれども。

 不思議なことに、大正天皇はそういう歌人能力を示しておりながら、大正天皇が語られること、その御歌が語られることが明治天皇、昭和天皇に比して格段に少ない。これは何によるのだろうか。ここではこの問題に触れない。とはいえ大正天皇の御歌に関する書籍がぼちぼちとは出ている。

 確認できるのは、1973年初版の小田村寅二郎、小柳陽太郎両氏の共編になる「歴代天皇の御歌(みうた)初代から今上陛下まで二千首」(日本教文社)である。明治天皇、昭和天皇の御歌集は単独で出版されているが大正天皇の御歌は目に触れる機会が少なかった。その意味で大正天皇の御歌公開の意義が深い。二千首との絡みが分からないが「この中に収められた総数465首の内、大正天皇の御製118首が謹選されている」と解説されている。

 大正天皇だけの御歌集は2002年初版の歌人・岡野弘彦著「おほみやびうた-大正天皇御集」(邑心文庫)が発行されてようやく日の目を見ることになった。456首が確認されている。岡野氏は、「おほみやびうた-大正天皇御集」の解説で次のように評している。

 概要「歌の出来は相当のレベルに達しており、特に、清涼さ、透徹した描写においては明治天皇や昭和天皇よりも優れていた」。

 「おほみやびうた-大正天皇御集」の帯文言は次のように記している。

 「世上、大正天皇をめぐって根のない噂話が流布した時期がある。しかし何よりも、こうした歌からうかがわれる天皇には、こまやかで、鋭い物の見通しと、それを短歌の表現にさわやかに凝縮してしらべ豊かに歌う、すぐれた才能を持っていられたことがわかる」。

 推薦の文言は次の通りである。

 「悲劇の帝王・大正天皇の無垢で高貴な気稟溢るる御製歌集。明治二十九年から大正十年までの歌を収録」。

 インターネット・サイト「天皇と短歌(二)大正天皇の御製」、2002.10.27日付毎日新聞書評欄「近代の帝はなぜ恋歌を詠まない?」、「大正天皇の大御歌」を参照すれば、丸谷才一氏が次のように評しているとのことである。

 「大正天皇は御水尾院以来最高の帝王歌人である」。「とにかく傑出した力量の持主で、もしもこの才能を自在に発揮させたならば、吉井勇、斎藤茂吉、北原白秋などと並ぶ、あるいは彼らを凌ぐ、大歌人となったに相違ない」。「ひょっとすると、大正という十数年間の憂愁と古典主義との結びつきを最もよく代表する文学者はこの帝だったという想念を抱かせるかも知れない」。

 五木寛之氏も大正天皇の御歌を絶賛し、「彼こそ歴代天皇の中で最高の歌人」と評価しているとのことである。

 大正天皇は和歌のみならず漢詩をも数多く詠んでおり、こちらも評価が高い。三島中洲の指導を受けて創作し始めたのであろうが、漢詩数は実に1367首に上る。質量とも歴代天皇のなかでも飛びぬけている。これを確認するのに、2位が嵯峨天皇と後光明天皇の98首。ついで後水尾36、霊元25、一条23、村上天皇18、淳和16。あと22人の天皇が6首以下である。

 この能力を聞いても、まだ大正天皇を粗脳呼ばわりする者ありしか。
 
 

れんだいこのカンテラ時評№1261

 投稿者:れんだいこ  投稿日:2015年 7月25日(土)12時36分46秒
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  【大正天皇実録考その4】

 ちょうど世紀の変わり目の1900(明治33)年、20歳の時、2.11日 、嘉仁皇太子は「日嗣ぎの御子」として公爵九条道孝の4女・節子(さだこ、後の貞明皇后、当時15歳)と婚約する。節子妃につきより詳しくは「貞明皇后考」で確認するが、要するにこちらも出雲系の出自であるところに意味がある。

 九条節子に白羽の矢を当てたのは、節子の父・九条道孝の実姉にして孝明天皇の女御にして明治天皇の正妻(嫡母)の九条夙子(あさこ、後の英照皇太后)であった。節子姫が幼い時、招かれて姉と共に青山御所にあがり、伯母である英照皇太后に目をかけられて、皇孫明宮嘉仁皇太子の妃に目されたと云う。何やら孝明天皇の歴史息を感じるのはれんだいこだけだろうか。

 同年5.10日、皇祖天照大御神の御霊代の御神鏡が座す宮中・賢所(かしこところ)での神前結婚式が厳かに執り行われた。留意すべきは、それまでは式は神前では行われず、式後に賢所に御参拝になるのが宮中の慣わしだったようである。「賢所の大前において、ご婚儀を行はせたまふ御事は、国初以来こたびを以て初めて」とあるので、この時、明治天皇を取り巻く当時の宮中の英断で賢所での神前結婚式に踏み切っていることになる。これが神前結婚式の走りとのことでる。

 儀式後、嘉仁皇太子は陸軍少佐の正装、節子皇太子妃はドイツ式正装で皇居周辺をパレードしている。そこらじゅう国旗や提灯、電飾と飾門が設けられ、皇礼砲が響き、花火が上がった。婚礼を見るために鉄道を使って上京した人は10万人を超え、祝辞を送った人は15万人を超えたとのことである。その後、節子妃はフランス式正装に着かえられ、各国公使らを含む2200人ほどの饗宴を催している。国内至る所で記念植樹や記念碑が建てられている。要するに日本中が祝賀ムードに酔いしれる国挙げての大祝典が成功裏に挙行されたことになる。これがその後の皇太子御成婚行事の先例となり今日に続いている。

 当時の人々は概ね皇太子の結婚を祝福しているようで、正岡子規は「東宮御婚儀をことほぎまつる歌」を詠み新聞「日本」に掲載されている。幸徳秋水も無署名ながら「万朝報」に「皇太子殿下の大礼を賀し奉る」という文章を載せている。幸徳の賛辞は如何なる政治眼力によるのだろうか。思うに、幸徳は、日本の皇室制度につき、他国にありがちな抑圧体制のものではなく、日本が誇り護るべき固有な高度な政治システムのものであると分別していたのではなかろうか。

 俗流マルクス主義の、日本天皇制をも西欧的君主制と同様な抑圧的なものと捉え、その打倒を生硬に唱えれば唱えるほど革命的とする理論に対して、アンチの姿勢を保持していたのではなかろうか。とすれば、幸徳のこの天皇制論は一聴に値するのではなかろうか。この観点に立てば、幸徳を葬った大逆事件も大杉栄を葬った関東大震災事件も胡散臭いことになる。何やら格別優秀な者が狙い撃ちされている観がある。

 もとへ。皇太子夫妻の新婚生活は順調に始まった。成婚当時は教育係の万里小路幸子という老女官に宮中での礼儀作法を厳しく躾けられ困惑したが、後年にはそれが自分の素養に大きく役立ったと感謝している。昭憲皇太后も節子妃を実の娘の様に愛されたという。

 特徴的なことは、節子妃が伝統的な女官制度のしきたりを打ち破り、妃自身が皇太子の身の回りの世話を行ったことである。即ち嘉仁皇太子は明治天皇とは対照的に側室を置かなかった。皇室における側室の制度が法的に廃止されたのは後の昭和天皇の時代であるが、側室そのものを事実上最初に廃止したのは大正天皇であった。良し悪しまでは分からないが皇室の一夫一妻制は大正天皇を嚆矢とすることになる。

 嘉仁皇太子の結婚は吉と出て、皇太子の健康にプラスの効果をもたらした。「大正天皇」(朝日新聞社)の著者/原武史・氏は次のように述べている。

 「結婚は、いうまでもなく誰にとっても、人生の大事な通過儀礼である。けれども皇太子の場合、そうした一般的な意味以上に、九条節子との結婚が生涯を変える節目となった。あれだけ病気を繰り返していた皇太子の健康が、結婚を機に明らかに回復に向っていくからである」。

 つまり、嘉仁皇太子は結婚後一気に健康を回復させて行ったことになる。このことを確認する事は、後の「病弱を理由とする大正天皇押し込め騒動」が「過剰な虚構の演出」であったことを明白にする点で重要である。

 大正天皇夫婦は子息に恵まれる。結婚の翌年の明治34年、第1皇子/迪宮裕仁(みちのみやひろひと)親王(後の昭和天皇)。その1年後の明治35年、第2皇子/淳宮雍仁(あつのみややすひと)親王(後の秩父宮)。それから4年後の明治38年、第3皇子/光宮宣仁(てるのみやのぶひと)親王(後の高松宮)。大正4年、第4皇子/澄宮崇仁(すみのみやたかひと)親王(三笠宮)の四男を授かっている。即ち、大正天皇夫婦は世継ぎ資格者をかくも鴻の鳥に運ばせたことになる。この意味でもご立派と云うべきではなかろうか。
 

れんだいこのカンテラ時評№1260

 投稿者:れんだいこ  投稿日:2015年 7月24日(金)15時28分4秒
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  【大正天皇実録考その3】

 本稿で、大正天皇論に纏わる病弱論、無能論につき検証しておく。大正天皇の履歴については別サイト「大正天皇の足跡履歴」に記す。ちなみに、「ウィキペディア大正天皇」(2015.7月現在)の大正天皇論を確認するのに標準的な記述になっている。これが大正天皇論の現在の相場ではあるが、本稿でその凡庸記述ぶりを露にさせておこうと思う。

 それにしても何故にかくも有能優秀なる大正天皇をかくも悪し様に罵るのであろうか。それはちょうどかくも有能優秀なる田中角栄をかくも悪し様に罵った様と通底している。我々はこの「仕掛けられている逆評洗脳」につきもっと深刻に洗い落とさねばならないのではなかろうか。

 大正天皇実録、明治天皇記その他によれば、確かに、後に大正天皇として即位することになる明宮嘉仁(はるのみやよしひと)親王は、生後まもなくの頃及びこれに続く幼少時代には病弱が認められる。しかし、子供の頃の病弱体質が次第に克服され青年期以降は却って壮健になる例は幾らでもある。幼少時代の病弱でもって終生にわたって病弱であったとする説には首肯し難い。

 1887(明治20)年、8歳の時、嘉仁親王は、学習院初等科の今の小学2年生にあたるクラスに編入されている。その時の様子は次の通り。最初の年は病気がちで83日欠席し進級試験も受けられなかったため留年している。その後、体調が安定して進級を重ね、4年生の時には1年間を1日も休まず皆勤賞としての「精勤証書」を受けている。「学期末の御成績も著しく(良くなった)」と記されている。1889(明治22)年、10歳の時、皇室典範の制定により立太子礼を挙げ皇太子となる(これにより、以降を嘉仁(よしひと)皇太子又は単に皇太子と記すことにする)。嘉仁皇太子は6年生になると再び大きな病気(腸チフス)をして12月から3月まで74日間にわたって欠席している。

 学業について「明治天皇記」は次のように記している。

 「時に齢11歳、既に学習院に学び、文武諸官輔導の任に当たり、学業日に進む、聡明にして仁慈性に具わる、近時身体すこぶる健なり」。

 1892(明治25)年、13歳の時、「徳大寺実則日記」の記述によれば、東宮武官長・奥保かたが明治天皇に対し次のように報告している。

 概要「24.6月より25.7月まで、殿下の学業成績は読書、馬術は著しく進歩され、随って記憶力も勝れ、但し読書進歩の割には意味を解せらるること乏しい。算術は他に比較すれば困難なり」。

 してみれば、13歳の頃よりは心身の気力が充実し成績も頗る良くなっていたことになる。1893(明治26)年、14歳の時、学習院初等科を卒業し中等科へ進んでいる。1894(明治27)年、15歳の時、体調が芳しくない事もあって中退している。その後は、赤坂離宮に設けられた御学問所で個人講義を受ける身となる。この時、当代の碩学泰斗が東宮侍講に選ばれ学問を授けている。東京帝国大学教授の本居宣長のひ孫に当る本居豊頴(とよかい)が国学を、同じく東京帝国大学教授の三島中州(ちゅうしゅう)が漢学を教えている。両者の学問が殊のほか功を奏し、歴代天皇の中でも指折りの名歌人として孵化することになる。これにつき次々稿で確認する。

 この頃、宮廷内に東宮職が設置され、その武官長として近衛歩兵第一旅団長の陸軍少将・奥保かた(やすかた)が就任し且つ東宮大夫も兼ね皇太子教育の最高責任者になっている。1892(明治25)年、陸軍歩兵中尉に昇進している。1894(明治27)年、日清戦争勃発。1895(明治28)年.16歳の時、陸軍歩兵大尉となる。同年8月、腸チフス肋膜炎肺炎などを併発し一時重体に陥る。結果的に医師ベルツらの助力もあって11月に無事全快に至った。大きな病気としてはこれが最後となる。(中略)

 1898(明治31)年、19歳の時、青山御所が東宮御所と定まり、明治天皇の意向により皇太子より17歳年上の有栖川宮威仁(たけひと)親王が東宮賓友に就任する。両者は稀に見る信頼関係を築いて行くことになった。ちなみに有栖川宮は、1891(明治24)年のロシア皇太子ニコライ(1868~1918)一行の訪日及び巡遊の際、長崎での出迎えから大津事件で中止になるまでの間の行動を共にし、ニコライ皇太子が人々と和合する姿を目の当たりにすると云う貴重な体験をしている。有栖川宮は「御健康第一、御学問第二」とする補導の方針を打ち出し、これを徹底させていくことになる。この年11月、皇太子は陸軍歩兵少佐並びに海軍少佐となっている。

 これらより推測するのに、嘉仁皇太子は、軍事教練と学問の功により「立派な大人に成人」していたことが判明する。原武史・氏は、著書「大正天皇」の中で次のように指摘している。

 概要「大正天皇は最終的に政治的な立場から排除(「押し込め」)された天皇であり、『生まれながらの病弱な天皇イメージ』が政治的な思惑を含んで流布されたものであり根拠に欠けるものだ」。

 然りであろう。大正天皇病弱粗脳論なる「政略的虚説」が今日まで定説化されているが、その始発は1921(大正10).11.4日、大正天皇直臣の原敬首相の暗殺直後からである。この頃より意図的故意に流布されるようになったものである。真実は、青年期を迎えた頃にはむしろ壮健な丈夫(ますらお)になっていたと推定できるのではなかろうか。
 

れんだいこのカンテラ時評№1259

 投稿者:れんだいこ  投稿日:2015年 7月22日(水)18時35分27秒
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   【大正天皇実録考その2】

 本稿で大正天皇の出自考をしておく。見たことも聞いたこともない話しになるであろうが、三度ぐらいは読み直して欲しいと思う。

 大正天皇は、1879(明治12)年、明治天皇の第3皇子として生誕する。母は側室2位局の柳原愛子(やなぎわらなるこ)である。親王の幼称は明宮(はるのみや)、御名は嘉仁(よしひと)。明治天皇には5人の皇子がいたが成人したのは明宮嘉仁だけである。これにより明治天皇没後、大正天皇として即位する。この大正天皇が在位中に幽閉され最終的に毒殺される。大正天皇に限ってなぜこのような最たる不敬事件が起り、それが許されたのか。大正天皇をして何がかくも過酷な運命を強いたのか。

 こう問うことに一理あるように思われる。こう問わない大正天皇論は物足りない。れんだいこは、この解を次のように求める。それは大正天皇の母に秘密が隠されているように思われる。その扉を開ければ、母の愛子(なるこ)が日本天皇制史上の拮抗軸である「出雲系/外来系」に照らして出雲系皇家の血筋であることが見えて来る。当時の家柄としては藤原北家の血を引く公家華族であるが、この際の「藤原北家」にはさほどの意味はない。要するに公家であり歴史的交合の結果として出雲系として登場していることに意味がある。

 ちなみに、愛子は歌人として知られる柳原白蓮(本名燁子、あきこ、1885-1967年)の伯母に当たる。即ち白蓮の父・柳原前光の妹である。してみれば、愛子と白蓮は姪の関係であり、愛子の子たる大正天皇と白蓮は従兄妹にあたることになる。(白蓮については「柳原白蓮考」参照のこと) このことの重要性がどこにあるのか。愛子を白蓮同様の歌人としての血筋に注目すれば足りるのだろうか。否、歌人としてのDNAは結果であり、本当に重要なことはもっと深いところに求められるべきではなかろうか。れんだいこは、その解を、「出雲王朝系血筋」に見出す。即ち、大正天皇の母が出雲系である故に出雲系の血筋を引き継いでおり、その親王がポスト明治天皇後の大正天皇として登場したところに特筆されるべき歴史的意味があると解している。

 このように注目されることがない。それは日本を歴史的にどう見るのかの視座が定まっていない故のことでしかない。日本を「原日本/新日本」の標識で解析しようとする史家の眼には大正天皇の特異性が見えて来る。即ち出雲系親王として愛育され、1889(明治22)年、11歳で皇太子。1900(明治33)年、20歳で同じく出雲系の九條道孝公爵の4女・節子(さだこ)と結婚。夫妻は4男の息子に恵まれている。1912(明治45)年、34歳で大正天皇として即位。これより「押し込め」幽閉されるまで近代日本史上稀有の出雲王朝系天皇の御代が続いたことになる。

 大正天皇は当然、出雲王朝(原日本)系政治を志向し始める。大正時代の時代的明るさはこれによる。それは何も西洋語のデモクラシーのみで語られるべき筋合いのものではない。出雲王朝(原日本)系政治の功でもある。但し、そういう大正天皇政治は難航を際めた。それは、日本史上に新たなベクトルとして「土着日本/国際ユダ屋」なる対立が登場していたからである。出雲王朝派の政治と国際ユダ屋の政治とは政治の型がまるで違う。それはやや小ぶりになるが戦後日本政治のハト派とタカ派の政治の型の違いに比することもできよう。

 大正天皇の御代、既に黒船来航以来の国際ユダ屋勢力が跋扈しており、これに抗する在地土着派と呼応する売国派との抗争が深刻化していた。結果的に大正天皇派が破れ、大正天皇は「押し込め」られ、代わりに皇太子裕仁親王が摂政となり、1926(大正15)年、崩御。こたびの大正天皇実録の第二次公開により、元老・山県派による執拗な大正天皇攻撃、その最後としての毒殺が推理されることになった。

 そういう悲惨な結末を余儀なくされたが、今瞑して思うべきは大正天皇の御代そのものを創り出した能力の方を好評価すべきかもしれない。この観点から見れば、昭和の御代は既に国際ユダ屋に引きずられる歴史の負の流れでしかない。昭和の御代に浮かれる者は大正天皇の御代を知らない半可通でしかない。結果的に大東亜戦争に誘い込まれ、国家的民族的危機に追い込まれた。その敗戦国日本を復興しその後の高度経済成長へと導いたのが原日本派の能力であった。これが戦後日本の保守主流派を形成したハト派の本質である。但し、戦後日本は一筋縄で括れるものではない。戦勝国側に餌食にされるべき運命にある。この両ベクトルが絡み合って進んだのが戦後日本ではなかろうか。

 更に云えば、現代日本政治とは、自公であろうが民主、維新であろうが目先だけの差であり、本質は国際ユダ屋に雇われた者たちによる請負政治に過ぎない。彼らは、原発、国債、重税、派兵、TPP、改憲の六重奏で二度と立ち上がれない日本づくりの下働きをしているチンケな連中である。これにより、国際ユダ屋配下日本と云う新たな日本、日本でない日本、見たことのない日本に向かうことになるであろう。
 

れんだいこのカンテラ時評№1258

 投稿者:れんだいこ  投稿日:2015年 7月20日(月)12時36分16秒
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   【大正天皇実録考その1】

 「NHK/大正天皇の実像詳細に」その他を参照する。
 (http://www3.nhk.or.jp/news/web_tokushu/2015_0701.html

 2015(平成27).7.1日、宮内庁が、大正天皇実録の第二次公開としてほぼ全文を公開した。「大正天皇実録」とは、生歴1879(明治12)年-1926(大正15)年、在位1912(明治45).7.30日-1926(大正15).12.25日と云う履歴を持つ大正天皇の47年の生涯を記録しおり、当時の宮内省が1927(昭和2)年から1937(昭和12)年まで10年間にわたって編修し、計95冊で構成されている(本編は85巻5000ページ余りからなる、ともある)。大正天皇実録は全巻が皇居にある宮内公文書館に所蔵されている。昭和天皇実録は2014(平成26)年に完結し2015年の3月から段階的に出版が始まっているが、大正天皇実録は今のところ出版計画がない。所定の手続きをとれば宮内庁書陵部図書課で閲覧できるとのことである。

 宮内庁は、大正天皇実録を2002(平成14)年~2011(平成23)年にかけて4回に分けて順次公開した。これを仮に第一次公開と命名する。その際、特殊性、機密性の強い箇所については個人識別情報として全体の約3%を黒塗りにしていた。その後、2011年、公文書管理法が施行された。一方、2014(平成26)年に完成した昭和天皇実録は個人情報に当るものも可能な限り公開するとして黒塗りは行われなかった。そこで大正天皇実録についても同じ基準での公開が迫られていた。

 2015(平成27).7.1日、大正天皇実録の第二次公開により、これまで個人情報保護などを理由に黒塗りにしていた部分の大半が解除された。解除された黒塗りは本編だけでも1000ヶ所以上に及び黒塗り部分の凡そ8割に当る。これにより黒塗り部分は全体の3%から0・5%に減った。宮内庁は、「時の経過」を踏まえて「考慮した結果」と説明している。但し、診断書や成績は引き続き非公開となっている。

 ところが、「こたびの大正天皇実録のほぼ全文公開」につき、ネット空間では音沙汰なしのようである。このことは関心が薄いことを示しているが、れんだいこは大いに注目している。騒がれていないのは、長年にわたって大正天皇に関心が向かわないよう報道管制が敷かれて来た結果としての盲目に過ぎないと思っている。事実は衝撃的である。その一つは、大正天皇論に纏わる病弱論、無能論が否定されたことである。事実は、「れんだいこの大正天皇論」に記したように「大正天皇の才を見るにむしろ稀に見る英才であり歴代天皇の中でも指折りの有能の部類に入る」と評されるべきである。

 もう一つ確認しておく。大正天皇実録の第二次公開によって大正天皇論毒殺の経緯と様子が間接的に明らかにされた。主犯は元老・山県有朋及びその徒党である。これを確かめるには大正天皇実録を直に当らねばならぬが、かく予想しておく。

 この系譜が、1・第14代征夷大将軍/徳川家茂急逝(1866.6.20日、20歳)、2・第121代天皇/孝明天皇急逝(1866.12.25日、36歳)、3・第122代天皇/睦仁親王(京都明治天皇)急逝(1867.7.8日)を手掛けており、大正天皇論毒殺はこれに続く「王殺し」であった。背後に潜むのは、黒船来航以来、我が国内を大手を振って闊歩し始めた国際ユダ屋である。こういう推理に導かれるからこそ大正天皇実録が公開されずに来たのではなかろうか。以下、これを論証とする。
 

れんだいこのカンテラ時評№1257

 投稿者:れんだいこ  投稿日:2015年 6月10日(水)20時52分2秒
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   2015自共党首討論の和気藹々考

 遅まきながら、2015.5.20日の安倍晋三首相と日本共産党の志位和夫委員長の党首討論を論評しておく。実に興味深いやり取りをしているので魚拓文にしておこうと思う。実際のやり取りは、「2015.5.21日付けしんぶん赤旗」の「日本の戦争を『間違った戦争』とさえ言えぬ首相、戦争法案を提出する資格なし、党首討論、志位委員長の発言」で確認することができる。

  党首討論は、志位(委)が安倍(首)の大東亜戦争観を尋ねるところから始まっている。一般的にどう思うかではなく、「過去の日本の戦争は間違った戦争という認識はありますか」と誘導質問的に問うている。安倍(首)は次のように答えている。概要「戦争の惨禍を二度と繰り返さずの不戦の誓いを心に刻み、戦後日本は平和国家としての歩みを進めてきたことを踏まえつつ世界の繁栄や平和に貢献することを決意しています」。

 志位(委)は概要「答えになっていない」と評し、続いて「戦後の日本は1945年8月、ポツダム宣言を受諾して始まりました」と前置きしてポツダム宣言の中身に言及している。即ち、特に第6項の「世界征服企図戦争論」、第8項「カイロ宣言認定の侵略論」の規定を採り上げ、両宣言共に大東亜戦争を「間違った戦争だとしている」とした上で、「総理はこの認識をお認めにならないのですか」と迫っている。これに対し安倍(首)が次のように返答している。概要「私はまだ、その部分をつまびらかに読んでおりませんので承知はしておりません。今ここで直ちにそれに対して論評することは差し控えたいと思います」。

  これに対し、志位(委)は「ポツダム宣言の認識を認めるのか認めないのか」と折り畳むように尋ねている。安倍(首)は次のように返答している。概要「ポツダム宣言を受け入れて戦争を終結させた。日本はこれを受け入れることによって終戦を迎え平和国家としての道を歩き始めることになった訳です」。志位が次のように難詰している。概要「戦後の国際秩序は日独伊3国の戦争は侵略戦争だったという判定の上に成り立っております。ところが総理は侵略戦争はおろか間違った戦争だともお認めにならない」。返す刀でこう結んでいる。概要「そういう歴史判断の暗い総理が日本を海外で戦争する国につくり変える戦争法案を出す資格はない。撤回を強く求めます」。

 何となく志位の攻めが功を奏しているように思える。世評も断然、志位の方に軍配を上げている。しかし、れんだいこは別の見方をしている。これが云いたい為に本ブログを書き付けつつある。志位質疑を好評するとすれば、他の論者が気の抜けたビールのような党首討論しかしていないのに比して、多少なりとも意味のある質疑応答をしていたと云う点においてである。つまり形式要件においてである。中身を採点すると面貌が変わる。結論から述べれば、両者共に由々しき政治家失格識見を披露している。これを仔細に見れば、斬られはずの安倍の方がかかと一枚残しており、斬ったはずの志位の方が再起不能的脳震盪に見舞われる予感がある。これを確認しておく。

  安倍の由々しき政治家失格的識見ぶりは無能力と無責任に帰す。中曽根、小泉以来の更なる軍事防衛国家化へ向けての日本大改造を手掛けている最中の当事者である首相が、戦後日本始発の国際テーゼに対して「不詳」と公言することが許されるのかどうか。普通は有り得てならない失言であり、実際にそうであれば失態と云うより現下の戦争法案は出直しが当然であろう。しかも、安倍は、この無知を無知と痛痒していない能天気さをも晒している。今や安倍のこの能天気さは国内のみならず世界でもお笑いの域であり、知らぬは当人ばかりなりの感がある。その意味で、この答弁を引き出した志位質疑は重要なポイントを上げたことは相違ない。

 ところが、志位は、安倍を斬るのに、その論旨が志位自身を切り刻んでいる感がある。即ち、この質疑を通じて、共産党の委員長たる志位がポツダム宣言を丸呑み、錦の御旗の絶対正義としていることを判明させている。しかしながら、そのような態度が本来の共産党のものであろうか。ポツダム宣言は勝国側の手になるものであり、もっと端的に言えば国際ユダ屋側のものである。こたびの党首討論は、志位がその国際ユダ屋戦後テーゼの忠実な教徒ぶりを満天下に晒したことになる。れんだいこは、ここに異様さを見て取っている。もっとも当の志位は無痛のようである。前委員長・不破のフリーメーソン史観を忠実に継承しているだけのことと嘯いているのかもしれない。

  こうなると、裏舞台を見れば、右と左と云うポジションは違えども両者は案外と国際ユダ屋同盟仲間なのではなかろうか。通りで党首討論が剣呑にならず和気藹々質疑で終始した訳である。もう少し詳しく述べれば、両者とも国際ユダ屋に飼われている仲間であり、右からのそれが安倍(自公民)、左からのそれが志位(社共)と云うことになるのではなかろうか。れんだいこは、国際ユダ屋論を獲得して以来、これを否定するより肯定する事象ばかりが目についてくる。即ち、この観点より総洗いざらいすれば歴史の深層の真相がよほど見えてくるのではなかろうかと思っている。誰か共認せんか。
 

れんだいこのカンテラ時評№1256

 投稿者:れんだいこ  投稿日:2015年 5月 3日(日)12時26分22秒
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   護憲論としての縄文社会主義論その8

 そろそろ「護憲論としての縄文社会主義論」を煮詰めておく。本稿では、これまで縷々縄文社会主義論に言及してきたことを受け、「何で今、縄文社会主義論なのか」と設題し解答しておく。縄文社会主義社会の政体、生態についてより詳しくは「別章【出雲王朝神話考】」に只今進行中で書き付けつつあるので参照されたい。付言しておけば、世界から好評価されつつある日本のあれこれは、この頃に作られた日本のあれこれである。

 もとへ。「何で今、縄文社会主義論なのか」の解はこうなる。日本史上の記紀神話が意図的故意に及び腰な言及で済ませている大和朝廷以前の邪馬台国御代、更にそれに先立つ出雲王朝御代の政体を高く評価せよ。

 それは何も懐旧趣味によるのではなく、どうやら実際に善政を敷き、その善政を支える思想、精神、文化、習俗、伝統等を確立していたと知るべきで、それがエコロジー的に高度で今後の人類の未来社会を先取りしている風がある。故に、それを追慕し且つ現代版バージョンに焼き直せよと指針せしめることになる。

 こう聞いて嘲笑する者も居るだろうが笑う者が笑われる。日本上古代史の出雲王朝御代は世界に冠たる否人類史に冠たるお手本的な御代であり、この文明を探索することは大いに有益である。こう確認するところから縄文社会主義論が始まる。れんだいこらしい一言を添えておけばこうなる。訳の分からん日ユ同祖論で煙巻きする暇があるなら、縄文社会主義論に集約される日本文明源流論を学ぶべきである。同じ荒唐無稽譚に興じるなら日本文明源流論の方がはるかに傑作で有益であろう。

 この縄文社会主義論の現代的意味、意義は、この論こそが現代世界の閉塞をこじ開ける能力を持つからである。現代世界を席巻する国際ユダ屋の創造する社会が余りにもいびつなものであり、地球環境の絶対的危機にまで辿り着いてしまっているにも拘らず解決する能力がない。

 と云うか、危機であればあるほどその閉塞にますますのめり込む式の知恵しか持ち合わせていない。分かり易く云えば、原発事故が起れば起るほどますます原発にのめり込もうとする愚かさに似ている。彼らの頭脳は原基的に中毒性気質を帯びている。そういう類のものでしかない。

 それと余りにも対比的なのが日本式縄文社会主義論である。国際ユダ屋文明が錯乱しつつある今日のような折柄に於いては、いやましに脚光を浴びざるを得ない。縄文社会主義論こそが狂気性を深めつつある国際ユダ屋的支配に棹差し、反転させ、本来のあるべき社会を創造し得る。現代社会の危機を救う処方箋を提示できる。

 出雲王朝御代、邪馬台国御代へと辿り着く社会総体を仮に日本文明と命名すれば、日本文明の素晴らしさは人間と自然との共生叡智を確立しているところにある。自然の中に神を観ているので神人和楽となり自ずと共生志向する。人間と自然の関係が共生であれば人間と人間の関係もそうなる。社会、国家もこの共生原理を通底させることになる。ホツマ伝えを見よ、そのように指針させている。

 この点で、国際ユダ屋のそれは真っ向から対立している。彼らにあっては自然は人間に支配される物質に過ぎない。彼らは自然支配する故に人間と人間の関係もそうなる。社会、国家もこの支配原理を通底させることになる。彼らの闘争論にはやるかやられるかしかなく、やるなら徹底的にやれ、中途半端が一番悪いと教える。故に日本式手打ち論を憎む。故に人と人との万年闘争論、階級闘争論、積極的平和主義と云う名での永久戦争論を振り回すことになる。タルムードを見よ、そう書いてある。

 最近のTPP騒動も、絵に描いたように国際ユダ屋の悪知恵商法である。日本文明は長期安定的平和的なシルクロード交易を好むが、国際ユダ屋は一攫千金的な収奪的なハゲタカ交易を求め続ける。科学と化学の関係もそうである。日本文明は科学>化学で科学を基調としているが、国際ユダ屋は化学>科学で殊のほか化学を好む。この化け学志向が彼らの原理であるように思われる。今やその化け学が原爆、原発に辿り着いており、同様な意味において経済的にも金融的にも詐欺的なことばかりしており、司法的にも政治的にも警察的にも軍事的にもその他何でもかんでもご都合主義的なインチキばかりしている。

 今や人類の救済はこうシグナルさせている。国際ユダ屋を支配の座から引き摺り下ろし再び歴史的に蟄居させねばならない。この連中に世上権力を与えてはならない。彼らをのさばらせれば碌なことにならない。こういうことが歴史的にはっきりしたのが現代である。

 ならば誰がそれを引き受けるのか。心配しなくて良い。既に新しい時代に相応しい動きが西欧圏、イスラム圏で始まっている。アジアでの中国、インド、南米その他の台頭もこれにリンクし始めるであろう。問題は我が日本である。一番遅れている。自公民政治とは、お笑い劇場内でトラックを手を振りながら逆走して拍手されている芸者型ピエロに過ぎない。世界は、あんなものは本当の日本ではないとみなして冷ややかに嘲笑している。それはさておき、日本が新時代の世界にリンクするには縄文社会主義論で伍すのが良い。縄文社会主義はこういう位置づけから生まれつつある。誰か共認せんか。
 

れんだいこのカンテラ時評№1255

 投稿者:れんだいこ  投稿日:2015年 4月 3日(金)19時05分11秒
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   護憲論としての縄文社会主義論その7

 前稿の補足として気にかかることがあるので言及しておく。日本左派運動が、戦後憲法をプレ社会主義法的なものとして位置づけ損なったことを指摘したが、そういう誤りに似た例として革命論を廻る論争がある。テーマとして日本資本主義の帝国主義への転化が未然か既遂か、日本資本主義の自立への転化が未然か既遂かを廻って論争が繰り広げられてきた。

 専ら日共系が帝国主義への転化未然論、対米従属論を唱え、新左翼系が帝国主義への転化既遂論、日帝自立論を唱えてきた。その折衷変種として日帝対米従属論も存在する。1970年代まではこういう革命論が盛んであった。しかしながら、1980年代に入って左派運動が衰微するに連れ、いつの間にか議論されなくなって今日に至っている。これにつき、れんだいこに見えてきた見解を発表しておく。

 日共系の対米従属論はいつもの例の通りのすり替えである。本来は国際金融資本(れんだいこは「国際ユダ屋」と命名している)を見据え、これに対する従属とすべきところを対米従属にすり替えている。このすり替えの犯罪性は、アメリカも又国際ユダ屋に従属させられており、いわゆる先進国と云われる西欧諸国全体が然りであるとする見立ての発展を阻止しているところにある。国際ユダ屋に眼がいくところを意図的故意に米国にすり替えて事足りようとしており、要するに急所をぼかしていることになる。これがどうやら意図的故意だから許し難い。

 他方、新左翼系の日帝論、その自立論が虚妄であることがますますはっきりしたように思われる。今日の日本の現状を見れば、日本資本主義を帝国主義規定して論ずる必要はない。むしろ国際ユダ屋従属性こそがトレンドのように目立っている。してみると、日共系が国際ユダ屋論へ向かわないように巧妙に論を組み立てているのに対し、新左翼系と来たら国際ユダ屋問題論そのものがないと云うことになるのではなかろうか。中には米国の東部経済と西部経済の争いが云々なる珍論で煙巻きするところもあるが、日共のアメ帝論同様の意図的故意のすり替えであろう。

 思えば、新左翼系のその後の自滅は、こういうところの理論の未熟から来ているのではなかろうか。社共式運動が国際ユダ屋の左側走狗に過ぎないと認め、対抗運動を創出したのには正義性があり、新左翼各派はその限りに於いて支持され一定の党的発展を遂げた。だがしかし、自前の革命運動レベルでの能力が問われる段になると解体玉砕方式しか展開できなかった。そういうお粗末な経緯を経ながらでも今現在、党的力量を保持している党派があるとすれば値打ちものであり立派と云うしかない。

 問題は次のことにある。日本左派運動の背景に指針、理論の間違いぶりがあり、それ故に人民大衆的支持を得られないまま今日に至っていることに気づくべきではなかろうか。一案として、れんだいこカンテラに従いレールを敷き直せば再度歓呼で迎えられる機会があるのではなかろうか。即ち、社共運動のエセ性を見据え、日本型共生主義の大道に歩を力強く進める。その際の基準は縄文社会主義であり、日本式神人和楽の助け合いによる王朝楽土建設である。外国式絶対真理如意棒を振り回す必要はなく、内に向けても外に向けても諸国民共和を志向し、そのらせん的漸次革命による共同体づくりに邁進すれば良い。

 こういう政治運動がないことが政治貧困なのではなかろうか。何故にそうなるのか興味がわくがここでは問わない。こういう政治運動があり、そういう政治運動下に身を投じて生活していけたとしたら寿命が短かろうが悔いるものはない。今後、この種の新党が誕生し日本政治を席巻する日を夢見たい。その為の日本改造指針論を著してみたいと思う。
 

れんだいこのカンテラ時評№1254

 投稿者:れんだいこ  投稿日:2015年 3月28日(土)11時10分48秒
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   護憲論としての縄文社会主義論その6

 以上が憲法の示す反戦平和規定である。世上のそれと戦後憲法のそれが似て非なるものであることが分かろう。つまり世上のそれが戦後憲法に即したものではなく戦勝国側の国際ユダ屋テキスト通りのものに過ぎないことを意味している。と云う訳で、厭戦主義、無抵抗主義、服従主義、降伏主義、謝罪主義、賠償主義、自虐史観と云う国際ユダ屋の世界支配に好都合な反戦平和思想となっている。

 即ち、先の大東亜戦争からの教訓として、1・そもそも戦争するべきでなかったとする総括、2・戦争の悲惨さを伝える恐怖論。ここまでならともかくも、この後に続く3・勝ち目のない戦争であったのに無謀にも戦争に向かったことへの反省。4・そういう勝てない相手に二度と歯向かいませんの恭順降伏。5・戦争指導者批判。昭和天皇の責任免責の上での軍部批判。特にA級戦争犯罪人に対する戦争責任の徹底追及。6・日本の国家的戦争責任としての諸外国に対する侵略謝罪、7、日本の国家的戦争責任としての諸外国に対する賠償責任、8・自虐史観等々の論から構成されている。

 特徴的なことは、敗戦国側にのみ戦争犯罪が適用され、戦勝国側に対する責任追及が免責されていることである。故に戦勝国側の為した市民無差別殺傷の都市爆撃、広島と長崎への原爆投下による大量殺人は免責されるどころか終戦を早めた聖戦ジハードとして称賛されたりする。

 逆に負けた方に対しては、史実検証よりも弾劾が優先される東西での敗戦国側の戦争犯罪が告発され続ける。これが東京裁判の全体構図であるが、こういう「勝てば官軍、負ければ賊軍」を地で行く反戦平和論が洗脳的に教育される。世上に流布されている反戦平和論はそういう論理式で検閲済みのものばかりである。

 東京裁判式反戦平和論のどこがオカシイのか、これを確認しておく。第一次、第二次世界大戦は実は、近代史に発生した国際ユダ屋の世界支配問題を廻る両派の世界大戦であった。結果的に国際ユダ屋派が勝利した。その結果、この戦争に関して勝者側の国際ユダ屋派的総括ばかりが押し付けられているに過ぎない。

 日本式の戦(いくさ)の場合には平家物語、太平記で分かるように喧嘩両成敗的な、あるいはどちらが正義であるにせよ戦争の中に両者の悲しみを見て取るような視点があるが、国際ユダ屋派的総括にはそういうものは微塵もない。負けた相手は徹底的に極悪非道にされ、未来永劫に戦争責任が追及されていく。そういう反戦平和論になっている。

 しかしながら、仮に連中の反戦平和論を日本伝統式の公正な見方で評するとしたらどうなるか。それは全く逆の景色になろう。即ち狂人ヒットラー論に対しては、ヒットラーの菜食主義者、禁煙者、ベルリンオリンピック名指揮者、親日家、霊能力者ぶりの側面が見えてくるかも知れない。降伏後のナチスに加えられた拷問の非道さが見えてくるかも知れない。

 もう一つ確認しておきたいことがある。日本の大東亜戦争が、西欧列強による世界分割戦の結果としての植民地を覚醒させ、戦後のアジア、アフリカ諸国の独立闘争の契機になったと云う側面がある。この点で世界史に大きく貢献していることは疑いない。日本のこの世界史的貢献に不言及な反戦平和論は片手落ちなのに世上の反戦平和論は全く無視している。このような視点を欠いたままの反戦平和論にされてしまっている。我々はそろそろ、そういうニセモノ反戦平和論、護憲論に辟易すべき頃ではなかろうか。そういうものとは別の真に有益にして公正な理論と実践を欲すべきではなかろうか。その上での改憲策動との闘いが要請されているのではなかろうか。

 目下、自公民派によるサイコパス的好戦主義に基づく積極的平和主義に基づく軍事防衛政策史の塗り替えが進行している。これの黒幕は国際ユダ屋の世界支配網である。連中は何しろ5千年の悪知恵で仕込まれているので手強いといえば手強いが、その戦争政策が自家中毒しており、遂に我が身を滅ぼす段階域に辿り着いているように思われる。連中はいわゆる賢こ馬鹿で、狂ったまま自滅すると思うから楽観はしないが悲観もしない。
 

れんだいこのカンテラ時評№1253

 投稿者:れんだいこ  投稿日:2015年 3月23日(月)16時55分37秒
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   護憲論としての縄文社会主義論その5

 戦後憲法前文と9条の反戦平和論を有機的に結合させると、1・国際平和希求、2・戦争放棄、3・武力行使放棄、4・戦力不保持、5・国の交戦権不認の5項目を基本的要件として規定していることになる。これを一括して「戦争放棄条項」と規定している。社会党的には非武装中立論であり、文学的には「あっと驚く徒手空拳防衛主義」と形容できようか。

 これを虚と見なすのか実と見なすのかが問われている。今日の状況から評すればドン・キホーテ的理想主義には違いない。しかしながら、この規定が第一次、第二次世界大戦で蒙った世界的戦争悲劇の余燼燻る中で生まれたことを理解せねばならない。当時に於いては実在力があった故に規定されたと見なすべきだろう。ここのところは、歴史的与件抜きに後付け話法で評する者はいつの世でも粗脳でしかないので留意すべきだろう。

 憲法学者・西修博士の研究「日本国憲法を考える」(文春新書)によれば、「国策遂行の手段としての戦争放棄」規定は、1928年に締結された不戦条約で述べられた思想に発し、1931年のスペイン憲法にも戦争放棄条項が加えられており、世界の現行憲法の中で何らかの平和条項を持っているものは124カ国にも上ると云う。しかし、最も明確に厳格に「不戦規定」しているのは日本国憲法を嚆矢とする。

 ここから汲み出す法解釈は、「日本国憲法に随う限り、我が国の軍事防衛政策は、国家権力の手段として対外的には平和外交を通じての国際友好親善活動、通商交易による不断の国際協調路線、対内的には災害救援隊活動、純軍事的には専守防衛活動しか為しえない」ということになるであろう。この規定が空文であるのかないのかの論議は又別であり、忽ちはかく理解すべきであろう。

 以上の「憲法前文と9条の生成過程」の一部が次のように明らかにされている。GHQ草案作成過程で、新憲法の理想的精神について、幣原首相とマッカーサー元帥との間で白熱共鳴のやり取りが為されている史実がある。第9条の「武装放棄」については、幣原はマッカーサー元帥に、マッカーサー元帥は幣原の発案としてお互いが譲り合っている。「羽室メモ」は次のように証言している。

 概要「幣原はさらに、世界の信用をなくした日本にとって、二度と戦争を起こさないということをハッキリと世界に声明することが、ただそれだけが敗戦国日本の信用を勝ち得る唯一の堂々の道ではなかろうかというようなことを話して、二人は大いに共鳴した」。

 幣原首相は次のように述べたと伝えられている。

 「中途半端な、役にも立たない軍備を持つよりも、むしろ積極的に軍備を全廃し、戦争を放棄してしまうのが一番確実な方法だと思う」、「旧軍部がいつの日か再び権力を握るような手段を未然に打ち消すことになり、又日本は再び戦争を起こす意思は絶対ないことを世界に納得させるという、ニ重の目的が達せられる」。

 ところで、日本国憲法は第99条で、行政当局者の憲法遵守義務規定を次のように課している。「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し、擁護する義務を負う」。これによれば、行政当局者は、憲法改正を論じ運動することは許されても、改正以前に於いては現憲法を遵守するべしとする厳格な義務を負っていることになる。これを法治主義と云う。現下の前倒しは法治主義違反であり、勝共連合統一原理派の挙動はそのレベルを超えて憲法テロリストサイコパスの域のものである。この痴態を許してなるものかわ。

 本来であれば、この99条規定に基づく違憲訴訟裁判所が設けられ、違法行為につき監視すべきであろうが、そこまでの強行規定にはなっていないようである。諸外国の憲法との比較で論じたいが残念ながら知識がないので分からない。しかし、この規定によって役人は何人も、この規定との緊張関係なしには業務できないのであり、国民はこれを監視する権利を得ており義務があると云うべきだろう。ここを疎かにするような憲法学者を御用系と云う。この手合いの憲法学者が最近の憲法改正の動きに鈍感きわまるのもむべなるかな。
 

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