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れんだいこのカンテラ時評№1245

 投稿者:れんだいこ  投稿日:2015年 1月 1日(木)12時45分20秒
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   2015たすけあい党新年声明

 2015年、明けましておめでとうございます。これまでの党声明を受け恒例の「たすけあい党新年声明」をお届けいたします。(「2007声明 」、「2008声明 」、「2009声明 」、「2010声明」、「2011声明 」、「2012声明 」、「2013声明」、「2014声明」)

 これまでのところたすけあい党は全くのネット政党でしかなく、しかも宣伝戦に努めていないためもあって特段の党的発展を得ておりませんが、もうそろそろ時代のギヤと噛み合う頃だと思います。よしんば我が党の発展が予想より遅くとも、我が党が指針せしめた俯瞰図が時代をリードして行くことはこれまでもそうであるしこれからもそうことに変わりはありません。

 「2015声明」は歴史眼を養うことの呼びかけから始めたいと思います。今、これが異常に曇ったものにされているからです。その代わりにくだらない「見聞きして為にならないもの」に時間を費消させられている気がしております。歴史眼養成の代替として「見聞きして為にならないもの」が流布されているように思います。この風潮に騙されることなく銘々が歴史眼養成に向かわねばなりません。このことを一言しておきます。

 さて、「歴史眼を養う」の「歴史」とはどのようなものを云うのでせうか。これを理解するのに為になると思われる語源話しをしておきます。ここでは西欧的な語源を確認しておきます。「歴史」の英文スペルは「history」、仏文スペルは「histoire」です。語源的にはギリシャ語・ラテン語の「historia」から来ているとのことです。「調査、探究によって学んだり知ったりすること。あるいはその積み重ねによって得られた知識、情報、知恵」を意味しています。古代ギリシアの歴史家・ヘロドトスが古代エジプト見聞録に「ヒストリア」と命名し、その書物が高い評価を得て以来、「ヒストリア」が今日的な意味での「歴史」を意味するようになったとのことです。この語源史が「歴史」の意味を示しているように思います。

 「history」に纏わるもう一つの有益な話しを確認しておきます。「history」は「his」と「story」に分解できます。これは、元の言語として「story」があり、これに「his」が加わって「history」が生まれたことを示しています。「story」は「物語」と訳されております。「his」を「彼の」と訳せば「history」は「彼の物語」と云うことになります。「his」を「神の」と訳す向きもあるようで、この場合は「神の物語」と云うことになります。おそらく「his」には「彼の」と「神の」の両方の意味があるように思われます。そういう「物語」を綴り纏めたものが「歴史」なのではないでせうか。

 何が言いたいのか。そういう語源を持ち大事に育まれて来た「歴史」が最近やけに粗略に扱われているのではないのか、もっと大事にせねばならないのではないのかと云うことが云いたい訳です。世界全体がどうなのかは分かりませんが、最近の日本で特に歴史が疎かにされている気がしてなりません。過去の歴史を疎かにすると云うことは現在を疎かにすると云うことであり、当然ながら未来を損なうことになります。そうであってはならない為に「歴史」を大事にしたいと思います。

 さて、本論です。日本の今、何が問題なのか。問題なところを列挙すればキリがありません。これを一言で評する「解」を見つけました。それが「歴史眼オンチ病」です。現下の日本は「歴史眼オンチ病」に罹っているのではないでせうか。正確にはオンチと云うより脳死状態と見なすべきかもしれません。。なぜそういうことが云えるのか。それは政治、経済、文化、精神のあらゆる指標が狂っており、否、狂い過ぎており、それにも拘らずブレーキをかけようとせず、同じレール上を突き進んでおり、これに異議を唱える者がいたとしても押さえ込まれており、全体として滅びの道へひたすらに歩を進めているからです。

 これを具体的に述べると原発問題が典型でせう。2011.3.11日の福島原発事故から今年で5年目に入ろうとしておりますが、事故処理が終了する方向に進むどころかますます混迷しつつあります。安倍首相が世界に公言した「アンダーコントロール」の嘘責任が問われる日が近いうちに必ずやって参ります。被災民対応もお粗末な限りです。海の者を山に連れて行き、海辺なのに海が見えないようにする防波堤を高く築くことに尽力しておりますが、これら全てが無駄な逆努力でせう。最近、立ち退き被災民は安全でないのに安全と偽られ帰還督促されております。これの責任を問われる日が近いうちに必ずやって参ります。食の安全、環境汚染問題まで含めると日本列島全体が生体実験下に置かれております。そうであると云うのに自公民政治は原発再稼動、原発輸出に精出しております。これの責任が問われる日が近いうちに必ずやって参ります。

 我が党はもはや猶予ならない事態であるとして本年度より、原発問題を原発事変と捉えるよう訴えます。今や戦前の支那事変の如くに原発問題が「ぬかるみ」に入り込んでおり、抜き差しならないところで立ち往生していることを確認する必要があります。自公民政治は、この「ぬかるみ」にますます入り込もうと誘導しております。戦前の支那事変もそうでした。国際ユダ屋に操られるままに好戦的な日本帝国主義の道へ誘導され、支那事変、大東亜戦争へと進んだ挙句に悲惨な敗戦を余儀なくされ、まかり間違えば日本の国も民族も失うと云う瀕死の重態下に置かれました。

 今また同じ「ぬかるみ」に引きずり込まれていると云う歴史眼を持たねばなりません。願うらくは、この道は偶然事象ではなく、戦前同様に国際ユダ屋勢力によって仕掛けられていると疑惑することが必要です。日本は今、戦後世界を席巻支配する国際ユダ屋にひざまずく売国奴によって戦前の二の舞三の舞を演じるよう誘導されております。この連中が政官財学報司警軍の八者機関の上層部に屯(たむろ)して悪事を策しています。この連中は一体、日本をどのように料理しようとしているのか。こう問題を設定し、その解を見出し、そのシナリオを見抜き、対応せねばなりません。この能力が問われております。

 もう一つ、不正選挙問題を取り上げておきます。これも不正選挙事変と命名します。ありうべからざる事態なのですが、今やこの不正選挙事変が蔓延しております。これの最も被害を受けているのが小沢どんグループです。この系譜は一新会、未来の党、生活の党と変身しておりますが無理やりに逼塞させられて今日の低落に至っております。昨年の2014衆院選では次世代の党が同じような圧力を受け壊滅的な打撃を受けています。奇妙なことに両党とも正式な抗議をしておらず、ムサシマシーン裁定を受け入れているのがお笑いです。

 我が党はかく進言しておきます。戦後憲法の代議員制に従う限り選挙の投開票の公正さは政治の命です。このところの流行りの「政治と金権問題」を十とするなら、その百倍ほど大事な政治の基礎ではないかと考えます。何故に十倍の「政治と金権問題」に目クジラし、百倍の不正選挙問題に目をつむるのか。我が党はこういう不正に怒ります。

 最近の選挙にエックス線を当てれば不審な像が見えます。そうであるのに選管は選管しないで逆の動きばかり強めております。そうである以上、選管を管理する選管管理委員会を設けねばなりません。これにより開票後の投票紙の再チェックをせねばなりません。この選管管理委員会も機能しなくなれば選管管理の管理委員会を設けと云う風に正しい選挙が担保できるまで委員会を立ち上げ続けねばなりません。これが膨大な無駄であることを思えば初手に戻って選管を正しく運営できるものにせねばなりません。

 本年度はこの二点に絞って年頭発信しておきます。今年全体を展望すれば不況がさらに深刻化し個々の生活レベルが相当程度なまでに苦しむことになると予想されます。なぜなら、このところずっと政治が逆行なことばかりし続けているからです。こういう時代を生き抜く知恵を見つけねばなりません。主体的な獅子奮迅とたすけあいにより生き延びるしかありません。共に進みませう。

 付言しておきます。昨年末、「生活の党と山本太郎となかまたち」が生まれました。見事な歴史対応力だと思います。政治の本質は共同戦線にあり、互いの違いを踏まえつつ共同する合同するのは知恵がある証拠です。これを称えたいと思います。逆に評する政論があるようですが無視する一手だと思います。

  2015.1.1日 たすけあい党党首れんだいこ拝
 
 

(無題)

 投稿者:大天使ミカエル  投稿日:2014年12月13日(土)15時26分48秒
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  自公が議席の三分の二を確実にしただけでなく、自民単独で三分の二議席に迫ると予想が出ているが、国民もさることながら民主などの野党が不甲斐ないから自民を増長させる。
共産が議席を倍増させても所詮は焼け石に水。
小選挙区制に適応できない糞政党が比例で議席をのばしても自民の暴走を止めるなど無理。
さらにその民主や共産を支持する脱原発派も人の話を聞かない自己中ばかり。
特にひどいのが、不正選挙などで、煽動記事や意味不明なことを叫ぶRk一味や日刊ゲンダイ、るいネットあたり。
奴らが不正選挙」を連呼すればするほど自民に票がいく有様。

奴らみたいなのがいるから秘密保護法ができるし、某巨大掲示板で言うならあの森田実みたいな‘逆神’そのもの。
奴らなんか死ねよと思う。

来年は安保関係の法律も整備され、へたをすれば、徴兵制が施行され、ニート、ひきこもり、生活保護受給者、精神病患者(特に統合失調症)は優先的に徴兵され、人間爆弾として抹殺されるな。
ガンダムSEEDのフレイやリアルのバカ女、知的障害者やじじい、デイケアや作業所に通う(独立党の みたいに)な家畜野郎ならともかく人間関係がとれず、卑屈な性格の俺までそんな扱いを受けなきゃいけないんだ!!
さらに国際情勢で言うなら、来年あたり尖閣か竹島で武力紛争がおき、さらに中東情勢の悪化が、日本の軍国化に輪をかけ、再来年には、中国との間に戦争が起きたりして。

明日の選挙報道の結果は自民単独の300越えか3分の2越えが確実。
確実に来年は憲法が改正され、徴兵制が宣言ん、法整備され、ニート、生活保護者、精神病患者、特に統合失調症患者は人間爆弾にされるぞ。
自民に票入れた奴や党員は御岳や広島で死んだ面やつらと同じように死ね。
広島や御岳で死んだ奴らは二年前の選挙で自民に入れた奴らばかりだから新で当然。
みんな死ねばいい。
PS:ガンダムSEED第十話で地球連邦軍の一般兵士用の宇宙服を着ていたラクス・クラインと第46話でザフト軍の宇宙服を着ていたフレイ・アルスターでオナニー扱いた。
ガンダムシリーズも含めて、最近のアニメの宇宙服(パイロットスーツは除く)はピチピガ多くて萎える。アニメ、それも女キャラが着る宇宙服はモコモコもっさりに限る。

http://blogs.yahoo.co.jp/mikaeru0628

 

れんだいこのカンテラ時評№1244

 投稿者:れんだいこ  投稿日:2014年11月 9日(日)18時06分36秒
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   手塚説と江口説が矛盾していないなんてことがある訳がなかろうにその2

 手塚とは何者か。「れんだいこのカンテラ時評№1111、補足・小林多喜二の妻・伊藤ふじ子、多喜二研究家・手塚英孝考」で素描している通りである。ここでは、Sが知らしめた省略部分の「合法的に動いていた私たちと非合法の彼とのあいだには何の連絡がなかった」に注目しておく。

 本人の弁で、多喜二の生前に於いて特段の接点がない御仁であったと語っている。むしろ「多少の誤解がある」として「伊藤ふじ子存在説」を証言した江口の方が多喜二と親交が深かった人と云うことになる。その江口氏が、「ふじ子は通夜にも葬式にも見えていない」なる手塚式偽証に異議を唱えていることの重みを受け取るのが筋であろう。

 付言しておけば、「多喜二の通夜の席へのふじ子の存在有無」判断につき、組織防衛的見地からの偽証であればあるほど、手塚如きが決められるべき筋合いのことでもない。ならば誰の指示によるのかと云うことになる。Sレベルの事情通ぶりでは皆目見当がつくまいが、蔵原-宮顕ラインの指示に従っての歴史詐術と云う線は大いにあり得ると窺うべきだろう。

 「ふじ子の来訪と激しい哀惜ぶり」を歴史に刻むか隠蔽するかにつき、これは歴史的行為であるから歴史的眼力で判断して差し支えない。が、一応は当人の考えも聞いて見るべきだろう。これを確認したところ、当人が史実を隠蔽するよう依頼していた形跡はないようである。否むしろ「ふじ子は通夜にも葬式にも見えていない」とする手塚式偽証の方にこそ非人情を感じているのではなかろうかと思える節がある。

 「ふじ子のこの後の生活に傷がつくことを踏まえ、彼女の生活に迷惑をかけたくないから」云々なる思いやり論による偽証正当化は気色の悪いものでしかない。事件から半年後、釈放されたふじ子が、それまで若干の付き合いのあった漫画家の森熊猛・氏の部屋のドアをノックして、「クマさん、今日やっと出されたのヨ。今晩とめて…」と訪ねて来た時、森熊氏にはふじ子と多喜二との仲は公然のことであり、そのことを受け入れた上で二人が睦みあう家庭を持ったのが史実である。手塚式思いやり論のおたく性、詭弁性が知れよう。

 Sの「手塚の事実隠しを宮本顕治の陰謀だと持っていくのは、下衆の勘繰りとまでは言わないが、あまり趣味の良くない推論だろう」の謂いには何の論証もない。云い得云い勝ちの弁でかく云いなして傲然としている。宮顕英明指導者論者のSが宮顕スパイ頭目説を唱えるれんだいこに敵意を燃やすのは分かるが、責任ある発言には多少なりとも論証が必要ではなかろうか。今や、れんだいこ説とS説のどちらが正しいのかが問われている。こういう論点の対立はどちらかが正しく、足して二で割る式の折衷では納まらない。れんだいこは歴史の審判が下るまでの道中を火の粉を払いながら待つことにする。

 それにしてもSの没論理性が気になる。「手塚の不在説は訳ありなのであり、偽証には違いないが偽証事情を忖度せねばならない」と述べ、この線でとどめるのなら一応は筋が通っている。ところが「手塚英孝と江口渙は矛盾していない」と云いなしている。こうなると完全に味噌くそ同視詭弁であり、且つ限度を超しているとみなすべきだろう。こういう論法を使い始めると物事の見境いがなくなってしまう。

 Sへのはなむけの言はこうである。当人は「趣味の良い推論」派を自認しているようだが、罵られた方のれんだいこからすれば、この手合いが高潔紳士として世間に通用しているとしたら気色の悪い、世渡りが上手過ぎるのではないかと思う。
 

れんだいこのカンテラ時評№1243

 投稿者:れんだいこ  投稿日:2014年11月 9日(日)12時29分18秒
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   「手塚説と江口説が矛盾していないなんてことがある訳がなかろうにその1」

 鈴木頌・氏の「"http://shosuzki.blog.jp/archives/11542673.html" 手塚英孝と江口渙は矛盾していない<」にネット検索で出くわした。同ブログは、「"http://6616.teacup.com/rendaico3/bbs/203" れんだいこのカンテラ時評№1111、補足・小林多喜二の妻・伊藤ふじ子、多喜二研究家・手塚英孝考」に反論している。れんだいこ立論1、多喜二虐殺通夜に於ける「手塚の伊藤ふじ子不在説」は偽証である。2、そういう変調記述の背後に宮顕の影があるに反論したつもりになっている。れんだいこが反論への反論をしておく。以下、鈴木頌・氏を仮にSとする。

 Sは云う。手塚と江口の両説は食い違っているように見えるが実は「ウソも方便的偽証」なのであり「手塚英孝と江口渙は矛盾していない」と云いなしている。Sは更に云う。「手塚の事実隠しを宮本顕治の陰謀だと持っていくのは、下衆の勘繰りとまでは言わないが、あまり趣味の良くない推論だろう」。Sはこの謂いを論証している訳ではない。レトリック文に終始しつつ結論を誘導しているだけである。こういう手合いを相手にするのは大変であるが斬り込んでおく。

 Sはのっけから「記事のはじめに、れんだいこさんが省略した部分がある」、「記事の終わりにもれんだいこさんの省略した部分がある」の物言いで、れんだいこ立論を落としこめようとしている。しかし、省略文のところを加味してもれんだいこ立論に何ら影響を与えない。つまり怪しげさを臭わそうとして持ち出しているだけの印象操作に過ぎない。

 興味深いことはSのロジックである。手塚の不在説を偽証と認定した上で庇うという芸当を見せている。その種明かしは「偽証の背景事情を忖度せよ」なる論理論法である。これにより偽証故に評価するという変調話法へと至っている。次のように述べている。「以上で明らかになったことが二つある。ひとつは、どう考えても二人は熱愛関係にあり、ハウスキーパーごときものではないということである。もうひとつは、直接には組織防衛のためではあるが、後には彼女のプライバシーを守ろうという関係者の暗黙の了解があったことである」。

 この論旨自体が粗雑であるが、世の中にはこういう粗雑な論旨に合点する者が居る。類が類を呼ぶ粗脳同盟でしかない。これを論証しておく。この物言いの問題性の第一は、Sがハウスキーパーを格別に蔑視していることが分かるところにある。「二人は熱愛関係にあった故に伊藤ふじ子はハウスキーパーではない」と立論しているが、「熱愛関係の有無」をもってハウスキーパーかどうかの認定基準にするのはSの基準であって一般的なものではない。この辺りはSの同棲観、結婚観、妻妾観、ハウスキーパー観を聞いて見たいところであるが恐らく愚頓な弁を聞かされるだけのことになろう。

 Sの物言いの問題性の第二は、「組織防衛&プライバシー保護&関係者の暗黙の了解」の面からの意図的故意の偽証を正当化していることにある。こういうロジックを好むのが宮顕であるからして、Sには自覚がないだけで実は相当深く宮顕理論、論法に被れていることが分かる。本質的に御用理論であるところに特徴がある。

 この種のロジックによって日共史もソ連共産党史も何度も書き換えられたのではなかったか。こういう論法を認めると適用範囲が際限がなくなるのではないのか。そもそも「偽証の正当化」を誰が認定するのかと云う問題もある。Sはこの種の論法を未だに平然と肯定しているようであるが、陸上競技に例えればトラックランナーとして二周ほど遅れている気がしてならない。

 Sはどうやら今日においても宮顕を戦前共産党運動の英明な指導者と賛美しており、宮顕時代の日共史を極力肯定したがっているようである。この点で、れんだいこの認識と大きく食い違っている。れんだいこは、「宮顕英明指導者論は逆であり、宮顕こそがスパイM以降、スパイMに成り代わる形で登場した共産党史上最大のスパイ頭目である」と批判している。この観点の差が、手塚の意図的故意の偽証を生み、それを容認するSを生んでいると解している。

 断言しておく。Sは手塚の意図的故意の歴史偽証を容認できるものとしているが、宮顕が牛耳り始めた党活動史上に於いて、多喜二の通夜の席に実質的な妻であろうがハウスキーパー的地位であろうが、そういうことに関わりなく伊藤ふじ子が居たことを隠さねばならないほどの運動上の利益は何もない。偽証及びその偽証の正当化を促す動きが認められるが嘘の上塗りの居直り弁でしかない。伊藤ふじ子の多喜二通夜への来訪と激しい哀惜ぶりは、隠すより事実を史実として語らしめた方が歴史に対して真摯である。
 

れんだいこのカンテラ時評№1242

 投稿者:れんだいこ  投稿日:2014年11月 2日(日)21時36分44秒
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   なぜ日本がホロコーストされるのか考その8

 日本思想では労働を好感度的に受け止めているのに対し、ネオシオニズムでは本質的に苦痛なものとして観念化していることを確認した。次に見るべきは、日本思想では概ね生活と仕事が一体であるのに対し、ネオシオニズムのそれは労働を自由抑圧としか捉えていないように思われることであろう。

 マルクス主義的搾取理論も、この系の労働嫌悪観から生まれている気がしてならない。これについては別途考究してみたい。もとへ。この種の労働嫌悪観から奴隷制度が生まれているのではなかろうか。つまり、自分の苦役労働を避けるための代替労働として奴隷が生まれ、これが制度発生の要因になっているのではなかろうか。

 そういう風に考えると、東洋圏からは奴隷制度が生まれていないことが首肯できることになる。東洋圏でも貴賎の差、身分の差は生み出しているが、西欧的な露骨なほどまでの奴隷制、階級差別、階層差別、人種差別は生み出していない。それらはネオシオニズム的思想土壌から生まれているのではなかろうか。なぜなら、奴隷制、階級差別、階層差別、人種差別は選民思想を媒介にせずんば生まれないからである。

 その他、日本思想は***、ネオシオニズム思想は***と色々に指摘できよう。要は日本思想と国際ユダ屋が奉ずるネオシオニズム思想とはこれほどに内実が違うと云うことが分かれば良い。最後をれんだいこ的関心ならではの識別をして締め括ることにする。誰か一人でも得心してくれたら本望である。

 ネオシオニズムでは個と個が良い意味では自律、悪い意味では対立している。その様は決して手放しで礼賛するには及ばないものである。これに対し、日本思想は逆に共同体一員思想に馴染み深く互いに助け合い、分かち合おうとしている。その分、個の自律を弱めてはいる。物事は一長一短が背中合わせなので良いとこ取りはできない。ネオシオニズムは共同体からの自律を求めて自由に憧れる。日本思想ではそれほど自由に憧れない。むしろ自ずと共同体内化する方向に歩み、共同体内での報恩感謝、義理人情に注意を払う。これも大きな違いだろう。

 両者の闘争観、戦争観も違う。ネオシオニズムは相手の絶滅を期して殺し合いなぶりあいイジメ合う。勝者は敗者を殺すか奴隷化する。中途半端な手加減が一番悪いとしている。日本思想は逆である。あらかたの勝負がついたところで手打ちし、勝者は敗者の生息を許す。ネオシオニズムは恨みを歴史に刻み報復戦を聖戦化させる。日本思想では怨恨を水に流すことを尊ぶ。

 ネオシオニズムは、「過ちては認めるなかれ」、「人の過ちには謝罪と賠償を要求し、手前の過ちには言葉巧みに言い逃れるべし」と教え訴訟社会に誘導する。東洋では「過ちては改むるに憚ること勿れ」との教えがあり、日本思想では潔い精神を高潔としている。こういう相違が文化にも出てくる。例えば服装の違いも興味深い。細々とは述べないが洋装と和装の様は何から何まで対比的である。和装が洋装に劣っているなどと云うことは断じてない。和風建築技術、土木技術も然りで西欧に劣っているなどと云うことは断じてない。

 最後に次のことを指摘しておく。ネオシオニズム思想の特殊的に複雑なところは、その二面性二枚舌性にある。連中は、手前達の共同体内部に向けては血統主義、同族主義、民族主義、愛国心を説く。ところが、外部向けには平気で逆の主義を説く。血統主義、同族主義、地縁主義に対して封建的と批判し、民族主義、愛国心に対しては代わりに国際主義を勧める。

 国際法に対してもそうである。イスラエルのガザ攻撃を見よ。手前らは不都合な時には国際法なぞどこ吹く風で縛られない。その癖、都合の良い時には国際法を持ち出して相手を咎める。ご都合主義、得手勝手主義の極みと云うべきだろう。これらは本音と建前の乖離とするより二重基準(ダブルスタンダード)論理論法として見据えた方が良い。ネオシオニズムほど酷い使い分けはないと思う。

 以上、もう少し愚考し続けたいがここで小休止させる。結論として、これほどに真逆な関係にある日本思想とネオシオニズム思想であるからして日ユ同祖論など有り得ないと知るべきであろう。本稿シリーズがこのことを様々に述べ今後の議論の際の一助としたことが誉れである。
 

れんだいこのカンテラ時評№1241

 投稿者:れんだいこ  投稿日:2014年10月30日(木)19時42分39秒
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   なぜ日本がホロコーストされるのか考その7

 ところで、ネオシオニズムは究極無神論であると云うことに同意いただけるだろうか。正確には、神の立場に金貨が座っている訳で、そういう意味では金貨が神であるとする金貨信仰と云えよう。古代宗教の一つに拝火教と云うのがある。これに倣えばネオシオニズムは拝金教である。この拝金主義が桁違いの蓄財主義、資本主義を生んでいると見なしたい。

 現代世界を資本主義体制と判じ、且つこれを歴史法則とみなすのが歴史学や社会科学の教説であるが、れんだいこ史観は異説を持っている。資本主義は歴史法則ではなくて、近代のネオシオニズムが人為的に強制的に持ち込んで出来上がっている体制でしかないのではなかろうかと。人類史の歩みは別に成立し得たところ無理やりに変質せしめられているのではなかろうかと。

 もとへ。ネオシオニズムは金貨こそが万能であり信仰の目標である。確かに金の力で市場の殆どのものが買える訳だから間違いと云う訳ではない。しかしながら、世の諸価値には金では解決できないものもある訳で、しかも大事なものほどそうである訳で、彼らが拝金教を信奉するのは勝手だとしても、彼らがそういう拝金教を他人様に押し付けようとし、従わない者に対する生殺与奪権を持っているとするなら大問題であろう。世界を拝金教ワンワールド秩序に拵えようとするのは無用な軋轢を生むだけであろう。

 そういう意味で、日本思想が対比的なほどに拝金教に被れていないところに値打ちが認められる。日本思想が仮に金権に被れるにしても金貨を自己目的化する訳ではない。ネオシオニズムのように手段と目的を逆転させてまでひたすらに拝金教に凝り被れるものではない。同様に、世界の民に於いては金貨信仰に同意したり酔える者はそう多くはない。大概は日本思想の如くに金貨至上主義を排斥する。

 日本思想では宵越しの金を残さずの江戸っ子気質が賛美されている。「立って半畳、寝て一畳」と云う精神もある。損得から云えば得にならない親兄弟の面倒を見る精神もある。こういう精神をネオシオニズムと比較考量した場合、劣っていたり間違っているとするのは勝手な見立てだろう。

 そういう人生観のみならず労働観も際立って相違している。ネオシオニズムに於いては労働は基本的には苦役な罰的苦痛のものである。これはどうもユダヤ教聖書(キリスト教に於ける旧約聖書)の「創世記」 の記述に影響されているようである。それによれば、エデンの園に於いて禁断の果実を食べたアダムとイブに対し、神は罰としてアダムには労働の苦痛をイブには出産の苦痛を与えることになった。英語の 「ビジネス(仕事)」 の語源は 「ビッジー(忙しい)」 であり、また 「レイバー(労働)」 の語源は 「難儀」 であり、フランス語の 「トラバーユ(働く)」はラテン語の 「トリパーリアーレ(拷問する)」 が語源であると云う。こういう労働観を持つネオシオニズムに於いては、若い時に早く荒稼ぎし、蓄財し、早くリタイアして労働から解放され、余生をバカンス的に楽しむのを良しとするようになる。

 日本思想はその真逆の労働観に立っている。労働できるのは健康な証拠であり、そういう健康を授けてくださる神に御礼を込めて健康な限り働く。「(我が働きで)傍々(はたはた)の者を楽にさせるので傍楽(はたらく)と云う。これが働きの本当の意味である」と云う御言葉もある。そこまで思わなくても、労働することによって却って生き生きとなり、そういう労働をできるだけ長く続けることを願っている。一攫千金型ではなくまじめにこつこつと働き、細々と長く給金を貰う作風を確立している。

 そういう意味で労働が生甲斐であり御用務めである。報酬は相手様のお役に立ってのものであり、人を泣かせて苦しめて我さえ良ければ式の蓄財とは無縁である。日本思想の元々の労働観はかようなものである。かって、我が社会にこういう労働観があったとするのが、れんだいこ史観である。こう捉えないと日本文化、伝統の巧みの技が理解できないからである。

 こういうことも確認しておきたかった。本稿がそういう役目を果たすことになった。さて、長々と続いているので、そろそろ締め括りに向かおうと思う。
 

れんだいこのカンテラ時評№1240

 投稿者:れんだいこ  投稿日:2014年10月25日(土)21時42分17秒
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   なぜ日本がホロコーストされるのか考その6

 日本思想とネオシオニズム思想の違いが最も端的に集約されているのが天地創造譚である。思想上は天地創造譚こそ万物発生のルーツであるから、これを重視する必要がある。確認するに両者の天地創造譚に於いて、その際の神の規定がまるで違う。

 日本思想は「HOWTO哲学」を基調とする機能論から、それぞれの機能を持つ八百万(やおよろづ)神々の御業(みわざ)を媒介させつつ天地創造を説いている。その最高神は慈母的である。ネオシオニズム思想は「WHY哲学」を基調とする真理論から、絶対的な権能を持つ唯一神の御業を媒介させつつ天地創造を説いている。その神は厳父的である。この辺りについては既に「"http://08120715.cocolog-nifty.com/blog/2014/08/post-f236.html" "ホロコーストの原義考」で「要するに、ユダヤ教と日本神道では神と人との関係が全く逆なものになっている」と述べているところである。

 ネオシオニズムは、これを如何にも思弁的に説く。この思弁能力によって他の思想よりも高位の理知思想であると自負する。返す刀で日本思想を低位なシャーマニズム(Shamanism)レベルのものと評している。しかしこういう仕分けこそがネオシオニズム優位の結論をもたらすヤラセ問答に過ぎないからしてナンセンスなものでしかない。

 実際には両者共に理知能力、思弁能力、シャーマニズム能力を備えている。ネオシオニズムはより多く語ることに意義を見出し、文書にする作法がある。日本思想の方は逆に感得を重視させているので少なく語ることに意義を見出し、文字で説き明かすことを危ぶみ不立文字に憧れている。そういう差があるが、その差でもって中身の判定にまでは及ぶべきでないと考える。

 ここまではまだ良い。問題は、天地創造譚から導き出される被創造物の諸々の関係にある。これは次のような構造になっている。即ちまずは「神と人との関係」が基準になり、それが「人と人の関係」に適用される。次に「人と人の関係」が基準になり「人と他の生物との関係」に適用される。最後に、これらが基準になり「人類と自然との関係」に適用される。これが両者ではどうなっているのだろうか。

 日本思想では、「神と人との関係」では人類は神の氏子であり、「人と人の関係」では氏子間は一列平等である。仮に現実の社会にどんな階級、階層が生まれようとも思想原理的には一列平等を旨として関係づけられている。「人と他の生物との関係」は生態系を乱さない捕食関係、用役関係を保つ。「人類と自然との関係」も然りで互いに調和的に関わっている。自然の恵みを享受し、自然の摂理を聞き分け、それに合わせて御す賢明さを求めている。

 然るにネオシオニズムでは全てが逆である。「神と人との関係」では人類は神の氏子であるとしても、「人と人の関係」では氏子間は平等ではない。創造主の意志だとしてユダヤ人が選民特権を享受しており、他の民族はユダヤ人の家畜類的ゴイムと位置づけられている。ユダヤ人が創造主の意志により世界の民を支配する権利を得ており義務を負っていると云う。この傲慢な思想を「ユダヤ選民主義」と云う。

 このことを、ユダヤ聖書が神の御言葉として次のように記している(「ウィキペディア選民としてのユダヤ人」参照)。「今、もしあなたがたが、本当に私の声に聞き従い、私の契約を守るなら、あなたがたは全ての国々の民の中にあって私の宝となる。全世界は私のものだから。あなたは私にとって祭司の王国、聖なる国民となる」(出エジプト記19章5、66節)。「主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも多かったからではない。事実、あなたがたは全ての国の民のうちで最も数が少なかった。しかし、主はあなたがたを愛された。また、あなたがたの先祖達に誓われた誓いを守られた」(申命記7章7、8節)。

 ユダヤ人は、この独特の選民主義によりユダヤ人に都合の良い論理を振り回すことになる。「人と人の関係」では弱肉強食型競争論、「人と他の生物との関係」では収奪的捕食関係論、「人類と自然との関係」では人類による自然支配論を編み出している。ユダヤ聖書は、神の御言葉として次のように記している。「生めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」。この神言の「生めよ、増えよ、地に満ちよ」は良いとしても、「地を従わせよ、生き物をすべて支配せよ」とする必要がどこにあるのだろう。

 れんだいこが見立てるところ、ネオシオニズムのこの奇矯な選民思想が全ての悪事の始まりのように思える。この選民主義が独善主義と排他主義、排外主義を生み、それに基づく支配思想、征服思想を生んでいる。それが人に対しても民族に対しても社会に対しても国家に対しても自然に対しても向かう。その完成態が、イスラエルの民を指導民族とする秩序であり、これこそ創造主に命じられた正義であるとして、その為の永続革命に向かう。

 かの時、出エジプトを成功させた霊能指導者モーゼが、ユダヤ選民主義の行き過ぎた独善主義を避けるべく「十戒」を授け、思想に重石をつけてユダヤ教に平衡感覚をもたらした。ユダヤ教がこの戒律を踏まえる限り思想にブレーキが掛かり平穏化する。問題はモーゼ戒律を外したときのユダヤ教である。興味深いことは、ネオシオニズムはユダヤ教内の反モーゼ主義派であり、そういう意味での原理主義である。このユダヤ教原理主義に悪魔主義(サタニズム)が加わるとどうなるのか。ネオシオニズムの怖さ危うさがこの辺りにある。
 

(無題)

 投稿者:大天使ミカエル  投稿日:2014年10月20日(月)14時24分46秒
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  リチャードコシミズはじめとするRK独立党一味,特にザガロ、はらへった、あのねあのね、ツイッタにいるハイパー主水、ラインクラフトにバレバレ達は前田明美さんや精神病患者、とくに統合失調症患者を社会から精神病院に隔離してホローコーストしろと言っている在日朝鮮人ばかりのナチス野郎で、生長の家や大本教系のカルト工作員で、キモオタネトウヨと変わらない。
私も統合失調症だから奴らのこんなレイシズムに満ちた主張は許せない。
こんなやつらはネトウヨと共にに人権擁護法と秘密保護法を適用して、言論と表現の自由を剥奪すべし。

PS:投薬中心の精神医学に反対する奴らも、統合失調症患者を病院で休養させる療法に反対しない(あのサイエントロジー参加のCCHRやツイッターで『キチガイ医』と自称する東京DDクリニックの内海聡医師すらそれに賛同する)。
それは反精神医学の人間も、ユダ金や創価、統一の借ると信者と同じように、統合失調症患者を社会のゴミとしか見ていないからであるり、抹殺してもいいという考えだからである。
そして患者を入院させ、休養させることは、モルモット扱いに加え、家畜としてペットとして扱い、精神的、社会的な将来を破壊することでしかない。

http://blogs.yahoo.co.jp/mikaeru0628

 

れんだいこのカンテラ時評№1239

 投稿者:れんだいこ  投稿日:2014年10月19日(日)09時22分28秒
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   なぜ日本がホロコーストされるのか考その5

 本稿で、日本思想と国際ユダ屋が奉ずるネオシオニズム思想の違いを確認する。ここで云う日本思想とは日本思想一般ではなく、「れんだいこの原日本論新日本論」で云うところの「原日本の日本思想」のことである。同様にネオシオニズム思想とはユダヤ教内タルムード派、即ち「パリサイ派のネオシオニズム思想」のことである。まずは論ずる対象をこう確定させておく。この両者は思想の根本の型が違う。しかも凹凸的なほどに対極的に異なっている。これほどの違いを踏まえれば日ユ同祖論などあり得るはずがない。どうしても親しく関係づけたいなら、真逆な故に矯正的に補うことができる間柄であるぐらいのことは言えそうである。

 この問題は非常に興味深いテーマなのだが、今のところこのように問う例はないようである。試しにネット検索してみれば良い。れんだいこの問いぐらいしか出てこないであろう。これは、こういう観点からの問いかけがなされないよう誘導されているか抑圧されていることを意味している。そういう意味で先達の労作から学ぶ機会はない、手探りで解を見出さなければならない。以下記すが、その内容につき今後更に精度を上げて行きたい。

 本稿では日本思想とネオシオニズム思想の最も端的な違いを確認する。それは多神教と一神教の差に見える論理構造にあると思われる。これを根本解としたい。次稿ではやや具体的に見ていくことにするが、ここでは根本解のみを採り上げる。根本解は全体を総合的に把握する為に抽象的な解になる。抽象的に述べると普通は分かり難いのだが、時には却って分かり易いと云うこともあろう。

 さて結論である。日本思想とネオシオニズム思想の差は多神教と一神教の違いに見える論理構造の差であり、それはカオスとロゴスの差である。カオス論理式は絶対的真理なるものを予定しないので当然の如くに諸理論が共存する。更に云えば共存しつつ競り合いしつつ共生する。新たな理論に対しても登場させ易いようにオープン&アバウトな柔構造にしている。WHYと問い真理を求めるよりもHOWTOと問い機能を解析し、これにより得る知見を役立てようとする。これを仮に「悟る系」と命名しておく。

 これに対してロゴス論理式は逆に絶対的真理なるものを求めることこそ命とするので、我こそが真理なりとして互いに排他的な論旨を組み立てる。他の理論に対する唯我独尊的優位を誇り易いクローズド&生硬な剛構造にしている。HOWTOと問い機能を解析するよりもWHYと問い真理を求め、これにより得る知見を役立てようとする。これを仮に「発見系」と命名しておく。

 要するに両者は逆さまな関係になっている。日本思想は前者、ネオシオニズム思想は後者のものである。この差は丁度、新生児臀部の母斑の如くにDNAにまで沁み渡っているのではなかろうか。人は、この母斑思想に基づきながら思索しているのではなかろうか。両派の対立が何時頃より発生したものかは分からないが今後も永遠に続くように思われる。どちらもが正か邪か簡単には裁断できないが敢えて判定すれば、真理教条棒を振り回すネオシオニズム思想よりも、そういうものを振り回さない日本思想の方が実は英明で深いのではなかろうか。

 なるほどネオシオニズム思想の真理探究エネルギーには感服させられる。だがしかし、膨大な学的体系を構築して見出した真理に対して、彼らは、その真理を相対化すれば良いものを絶対化する癖がある。これにより別の教条を持つ思想と出会うや融通がきかない。互いから学ぶことをしないで己の正義を主張し合うことになる。これに対し日本思想はそういう真理論に耽らない、絶対的真理なるものを弄ばない。むしろ、真理論に拘泥して真理ならざる真理を無理やりに見出して、それへの恭順を説く思想を暗愚として忌避している。そういう分別、弁えを持っているので、対象の真理論ではなく機能論の探求に向かう。絶対的な真理教条をもたないことによる融通無碍の柔軟さがある。

 両者にはそういう違いがある。この気づきが何故に重要なのか。それは、先の「なぜ日本がホロコーストされるのか考その3」で述べたように、思想デザインが事物発生の原基ではないかと思っているからである。この原基はレールのようなもので、レールが変われば運ばれる先が変わることになる。故に政治、経済、文化、諸芸、学問、精神、規律、その他諸々が異なるようになる。これにより所作が違うことになる。こうして思想上のロゴス派とカオス派の違いがあらゆるところへ波及しているように思われる。そういう訳で、「社会の根本は思想闘争の歴史である」とでも云えるような思想こそが社会の根本的な規定をしているのではなかろうかと考えている。

 本来は、この違いをもっと重視すべきところ、されていない。今や次第にネオシオニズム思想の方が主流化しつつあるように見える。これは、現代文明がネオシオニズム思想の威勢に押されていることによると思っている。本来は日本思想の方の威勢が押すべきではなかろうかと思っている。これは歴史に委ねるしか方法がない。
 

れんだいこのカンテラ時評№1238

 投稿者:れんだいこ  投稿日:2014年10月12日(日)10時35分50秒
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   なぜ日本がホロコーストされるのか考その4

 本来はそろそろ日本思想と国際ユダ屋が奉ずるネオシオニズム思想との違いに入るべきだが、これはかなり高度で難解と云うこともあり、もう少し回り道しておく。要するにもったいぶりながら時間稼ぎしている訳である。

 日本思想のネオシオニズム思想との出会いは戦国時代であった。丁度、種子島への鉄砲伝来時期とバテレン布教開始時期が符合している。通説は、1543年(天文12)年辺りにポルトガルの商船が暴風雨にあって種子島へ漂着し鉄砲を売りつけたのが伝来史であるとされている。しかし、鉄砲伝来時期とバテレン布教開始時期が妙に符合していることを考慮し、バテレンが日本攻略術の一環として鉄砲を伝来させたと読みたい。こういうところは表に出てこないので推理能力を働かせる以外にない。

 バテレンが来襲するところ追って必ず王殺しが始まっているのが世界史の通例である。そういう目で見ると、バテレン来日以来の王殺し、寺社焼き討ちも疑わねばならない。「れんだいこのイエズス会考、ネオシオニズム系宗教結社考」で述べたが、1565(永禄8)年の13代足利将軍・義輝殺し(永禄の変)。1567(永禄10)年の東大寺大仏殿焼失。1571(元亀2)年の比叡山延暦寺を焼き討ち。1582(天正10)年の織田信長殺し(本能寺の変)。通説は、これらの事変の背後にバテレンの差し金を読まないが何とも味気ない。こういうところは表に出てこないので推理能力を働かせる以外にない。

 それはともかく、この時期、バテレンが次から次へと上陸し日本のキリスト教化を図った。このバテレンと云うのはキリスト教信徒団体を装っているが当時の国際ユダ屋の回し者である。その証拠が限りなく残されているので間違いない。以下、本稿ではバテレン教と表記する。バテレンによるバテレン教化は世界各地で首尾よく成功したのに日本では失敗した。これをどう読むべきか。具体的には織田信長の晩年のバテレン教離れ、豊臣秀吉のバテレン追放令、徳川家康のバテレン教禁教と鎖国により実現した訳であるが、時の権力者をしてそのように采配せしめたのが日本思想であり、日本思想こそが撃退したと読みたい。

 これにつき、1587(天正15)年の「豊臣秀吉の伴天連(ばてれん)追放令」で法理を確認する。追放令の直接的契機は、バテレン勢力に日本国乗っ取りの兆しがあり、これを認めたからである。秀吉が九州最後の大大名・島津氏攻めの為に博多に下った時、日本イエズス会・準管区長に新任したコエリヨが南蛮式軍艦に乗って大提督のような格好をして出迎えた。コェリョは大砲などの武器を見せ、スペイン艦隊が自分の指揮下にあるごとく誇示した。且つ九州を一巡する間にバテレン教大名によって無数の神社やお寺が焼かれているのを確認した。秀吉は九州平定直後、バテレン追放令を発布しバテレン勢力の掃討に乗り出した。

 バテレン追放令の法理を確認する。一つは、「植民地政策の尖兵として宣教師の布教が為されている」とする「日本国乗っ取りの危惧」であった。後に判明するところ真に英明な判断であった。次に、バテレン教がバテレン教以外を邪教とし排斥し、各地の神社仏閣を破壊し神官、僧侶らを迫害していることを咎め、「バテレン教の唯我独尊的独善ぶりは、神国日本の祖法である宗教各派の平和的共存政策を否定する邪教である。バテレン教が神社仏閣を打ち壊すのは不届きであり今後はきつく処罰する。教会に領地を寄進してはならない」として排斥している。これも又真に見識の高い判断であった。

 三つ目は、日本人男女を南蛮に売り渡す人身売買(奴隷売買)を禁止した。当時、「鉄砲火薬」と引き換えに日本人数十万人が奴隷売買され世界各地へ売られていた。これは余り知られていないが史実のようである。これにつき天正遣欧使節の次のような証言が遺されている。概要「どこへ行っても日本人奴隷が目につく。首を鎖でつながれ、我々をみて哀れみを訴える眼ざしは辛くてならぬ。日本の娘らが秘所をまるだしにつながれ弄ばれている。血と言語を同じうする日本人を家畜のように安い値で手放すわが民族への怒りに燃え立たざるを得なかった」。これも又首肯できるものであろう。四つ目は、肉食禁止令の系譜からのものであった。「宣教師達は牛馬を食べることを好む。それは日本の祖法に抵触している」。秀吉は、「馬や牛は労働力として活用するものであり食べるものではない」と批判している。これも又首肯できるものであろう。

 れんだいこは、これらの論理論法に注目している。見てきたようにバテレン教を正確に解析し、今日にも通用する見識でもってバテレン教を邪教と断罪し排斥している。この見識の拠って来る淵源に日本思想があるのではなかろうか。この日本思想は西欧被れ派に云われるような未開野蛮なものではなく西欧思想の一歩先を行っているのではなかろうか。かの時に確固として確立されていた日本思想のお陰で、日本は西欧列強の植民地支配の餌食にされずに済んだのではなかろうか。興味深いことに、隣の韓国では相当なキリスト教化が進んでいると聞かされているが、日本は今日まで世界各国の中でユダヤ-キリスト教がこれほど育ちにくい国はないとされる栄誉に与っている。これのお陰を日本思想に求めるのが、れんだいこ史観である。
 

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