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謎の(初めてなので)訪問者

 投稿者:名無しの探偵  投稿日:2015年 1月24日(土)20時26分50秒
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  初めて訪問します。名無しの探偵です。管理人さんとほぼ同世代。まだ勝手が分からず、メッセ―ジはありません。
見渡したところ、二人の投稿者しか見受けられなかった。話が難しすぎるからか。田中角栄と三木武雄の妾騒動に重点が移っており、ややこしくなったのだろうか?
今日はこの辺で。
 
 

れんだいこのカンテラ時評№1246

 投稿者:れんだいこ  投稿日:2015年 1月20日(火)15時30分11秒
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   為にする田中角栄悪評論を斬り捨てておく

れんだいこブログの中で「田中角栄の妻及び愛人との絆考」が人気記事ランキング第1位であり最も評価が高いようである。これに比して、角栄に対する為にする悪評が為されている。本稿でこれを質し斬り捨てておく。ネット検索で「政治家愛人伝説、政敵の愛人店を乗っ取った田中角栄」、「竹田恒泰の田中角栄は三木武夫の愛人も世話をしていた」に出くわす。それらが、れんだいこの「田中角栄の妻及び愛人との絆考」以前のものなら許せるが、以降のものであれば容赦する必要はなかろう。

 「政治家愛人伝説 政敵の愛人店を乗っ取った田中角栄」が発表されたのは2012年10月10日頃の週刊FLASH10月23日号である。政治評論家の小林吉弥氏の言として次のような文章が記載されている。「クリーンな印象の三木武夫元首相にすら愛人はいました。ただ、その愛人が銀座にクラブを開店させたとき、それを聞きつけた田中角栄が『そりゃ、めでたい』と通い常連になってしまった。そうなると竹下登や小渕恵三など田中派の若手も飲みに来る。いつしかその店は田中派に乗っ取られていたんです。田中と三木の怨恨は知られるところ。政敵の店をまんまと…ですね」。

 この文の内容の真偽を確認しておきたい。問題は、角栄が政敵である三木の愛人が経営するクラブの通い常連になり仕舞いには田中派常連の店にするようなことが本当にあったのか。「小林吉弥発言」としているが小林吉弥は本当にそのように発言しているのか、これを質したい。れんだいこは、角栄が「クラブへの通い常連」になること自体があり得ないと断言しておく。角栄が飲食接待に顔出しするのは奇妙なほどに料亭でありクラブへの出入り履歴を知らない。

 角栄はなるほど洋酒ウイスキーとしてはオールドパーを愛飲していたがクラブ、スナックに神出鬼没していたとは聞かない。逆に和風料亭出入りなら履歴を相当に残している。それを、「小林吉弥発言」は、1、角栄が三木の愛人の経営する店だと承知しておりながら、2、常連になり、3、田中派行きつけの店にしたと云う。角栄式義理人情論を踏まえればありえない。要するに為にする角栄悪評である。これを垂れ流す「週刊FLASH10月23日号」の執筆者は伏せられている。卑怯姑息なことよと指弾しておく。なお、小林吉弥が実際に「小林吉弥発言」をしていたとしたら説明責任がある。何を根拠にしているのか明らかにせよ。

 次に、「明治天皇の玄孫」を売りにしている竹田恒泰の「田中角栄は三木武夫の愛人も世話をしていた」を確認しておく。これによると、発表されたのは2014年2月4日頃で、竹田が YouTube上で 「田中角栄元総理は5人の愛人を囲っていたのにもかかわらず三木武夫元首相の愛人の世話もしていたそうです」と伝聞発言している。竹田の論拠は分からないが、「小林吉弥発言」を唯一の根拠にしていたとしたら評論能力のお粗末さを示している。人を評するのに、擁護せねばならぬ者を批判し愚弄する癖がある御仁であると見立てておく。こんな評論で高給暮らしなぞあってたまるものかわ。それなられんだいこの評論能力は億万長者に値しようぞ。世の中大いに間違っとるわい。

 ところで、こういう為にする角栄悪評はどこから生まれるのだろうか。本来なら角栄は近現代史を彩る世界史的な傑物政治家としての日本が誇るべき人物である。それを悪し様に評し立花-日共式に「金権腐敗政治元凶論」で罵り、返す刀で中曽根名宰相論を唱える。こういう見解を生み出す黒幕が国際ユダ屋である。連中はあらゆる方面にテキストを作成しており、これを上手に口パクすれば出世する道が敷かれている。この門を潜ると学んでますます馬鹿になる。こういう自称インテリが多いが、連中が大人しければまだしも力むとなると相手にせずそっとしておく一手である。角栄好評の我々は連中に背を向け、我々の空間を広げつつ語り部になる努力をすべきであろう。
 

謹賀新年

 投稿者:れんだいこ  投稿日:2015年 1月 1日(木)12時54分29秒
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   2015年、明けましておめでとうございます。今年一年の抱負はいろいろありますが、自分で自分を褒められる年にしたいと思います。皆様方にもご多幸な年であらせますように祈念申し上げます。れんだいこ拝  

れんだいこのカンテラ時評№1245

 投稿者:れんだいこ  投稿日:2015年 1月 1日(木)12時45分20秒
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   2015たすけあい党新年声明

 2015年、明けましておめでとうございます。これまでの党声明を受け恒例の「たすけあい党新年声明」をお届けいたします。(「2007声明 」、「2008声明 」、「2009声明 」、「2010声明」、「2011声明 」、「2012声明 」、「2013声明」、「2014声明」)

 これまでのところたすけあい党は全くのネット政党でしかなく、しかも宣伝戦に努めていないためもあって特段の党的発展を得ておりませんが、もうそろそろ時代のギヤと噛み合う頃だと思います。よしんば我が党の発展が予想より遅くとも、我が党が指針せしめた俯瞰図が時代をリードして行くことはこれまでもそうであるしこれからもそうことに変わりはありません。

 「2015声明」は歴史眼を養うことの呼びかけから始めたいと思います。今、これが異常に曇ったものにされているからです。その代わりにくだらない「見聞きして為にならないもの」に時間を費消させられている気がしております。歴史眼養成の代替として「見聞きして為にならないもの」が流布されているように思います。この風潮に騙されることなく銘々が歴史眼養成に向かわねばなりません。このことを一言しておきます。

 さて、「歴史眼を養う」の「歴史」とはどのようなものを云うのでせうか。これを理解するのに為になると思われる語源話しをしておきます。ここでは西欧的な語源を確認しておきます。「歴史」の英文スペルは「history」、仏文スペルは「histoire」です。語源的にはギリシャ語・ラテン語の「historia」から来ているとのことです。「調査、探究によって学んだり知ったりすること。あるいはその積み重ねによって得られた知識、情報、知恵」を意味しています。古代ギリシアの歴史家・ヘロドトスが古代エジプト見聞録に「ヒストリア」と命名し、その書物が高い評価を得て以来、「ヒストリア」が今日的な意味での「歴史」を意味するようになったとのことです。この語源史が「歴史」の意味を示しているように思います。

 「history」に纏わるもう一つの有益な話しを確認しておきます。「history」は「his」と「story」に分解できます。これは、元の言語として「story」があり、これに「his」が加わって「history」が生まれたことを示しています。「story」は「物語」と訳されております。「his」を「彼の」と訳せば「history」は「彼の物語」と云うことになります。「his」を「神の」と訳す向きもあるようで、この場合は「神の物語」と云うことになります。おそらく「his」には「彼の」と「神の」の両方の意味があるように思われます。そういう「物語」を綴り纏めたものが「歴史」なのではないでせうか。

 何が言いたいのか。そういう語源を持ち大事に育まれて来た「歴史」が最近やけに粗略に扱われているのではないのか、もっと大事にせねばならないのではないのかと云うことが云いたい訳です。世界全体がどうなのかは分かりませんが、最近の日本で特に歴史が疎かにされている気がしてなりません。過去の歴史を疎かにすると云うことは現在を疎かにすると云うことであり、当然ながら未来を損なうことになります。そうであってはならない為に「歴史」を大事にしたいと思います。

 さて、本論です。日本の今、何が問題なのか。問題なところを列挙すればキリがありません。これを一言で評する「解」を見つけました。それが「歴史眼オンチ病」です。現下の日本は「歴史眼オンチ病」に罹っているのではないでせうか。正確にはオンチと云うより脳死状態と見なすべきかもしれません。。なぜそういうことが云えるのか。それは政治、経済、文化、精神のあらゆる指標が狂っており、否、狂い過ぎており、それにも拘らずブレーキをかけようとせず、同じレール上を突き進んでおり、これに異議を唱える者がいたとしても押さえ込まれており、全体として滅びの道へひたすらに歩を進めているからです。

 これを具体的に述べると原発問題が典型でせう。2011.3.11日の福島原発事故から今年で5年目に入ろうとしておりますが、事故処理が終了する方向に進むどころかますます混迷しつつあります。安倍首相が世界に公言した「アンダーコントロール」の嘘責任が問われる日が近いうちに必ずやって参ります。被災民対応もお粗末な限りです。海の者を山に連れて行き、海辺なのに海が見えないようにする防波堤を高く築くことに尽力しておりますが、これら全てが無駄な逆努力でせう。最近、立ち退き被災民は安全でないのに安全と偽られ帰還督促されております。これの責任を問われる日が近いうちに必ずやって参ります。食の安全、環境汚染問題まで含めると日本列島全体が生体実験下に置かれております。そうであると云うのに自公民政治は原発再稼動、原発輸出に精出しております。これの責任が問われる日が近いうちに必ずやって参ります。

 我が党はもはや猶予ならない事態であるとして本年度より、原発問題を原発事変と捉えるよう訴えます。今や戦前の支那事変の如くに原発問題が「ぬかるみ」に入り込んでおり、抜き差しならないところで立ち往生していることを確認する必要があります。自公民政治は、この「ぬかるみ」にますます入り込もうと誘導しております。戦前の支那事変もそうでした。国際ユダ屋に操られるままに好戦的な日本帝国主義の道へ誘導され、支那事変、大東亜戦争へと進んだ挙句に悲惨な敗戦を余儀なくされ、まかり間違えば日本の国も民族も失うと云う瀕死の重態下に置かれました。

 今また同じ「ぬかるみ」に引きずり込まれていると云う歴史眼を持たねばなりません。願うらくは、この道は偶然事象ではなく、戦前同様に国際ユダ屋勢力によって仕掛けられていると疑惑することが必要です。日本は今、戦後世界を席巻支配する国際ユダ屋にひざまずく売国奴によって戦前の二の舞三の舞を演じるよう誘導されております。この連中が政官財学報司警軍の八者機関の上層部に屯(たむろ)して悪事を策しています。この連中は一体、日本をどのように料理しようとしているのか。こう問題を設定し、その解を見出し、そのシナリオを見抜き、対応せねばなりません。この能力が問われております。

 もう一つ、不正選挙問題を取り上げておきます。これも不正選挙事変と命名します。ありうべからざる事態なのですが、今やこの不正選挙事変が蔓延しております。これの最も被害を受けているのが小沢どんグループです。この系譜は一新会、未来の党、生活の党と変身しておりますが無理やりに逼塞させられて今日の低落に至っております。昨年の2014衆院選では次世代の党が同じような圧力を受け壊滅的な打撃を受けています。奇妙なことに両党とも正式な抗議をしておらず、ムサシマシーン裁定を受け入れているのがお笑いです。

 我が党はかく進言しておきます。戦後憲法の代議員制に従う限り選挙の投開票の公正さは政治の命です。このところの流行りの「政治と金権問題」を十とするなら、その百倍ほど大事な政治の基礎ではないかと考えます。何故に十倍の「政治と金権問題」に目クジラし、百倍の不正選挙問題に目をつむるのか。我が党はこういう不正に怒ります。

 最近の選挙にエックス線を当てれば不審な像が見えます。そうであるのに選管は選管しないで逆の動きばかり強めております。そうである以上、選管を管理する選管管理委員会を設けねばなりません。これにより開票後の投票紙の再チェックをせねばなりません。この選管管理委員会も機能しなくなれば選管管理の管理委員会を設けと云う風に正しい選挙が担保できるまで委員会を立ち上げ続けねばなりません。これが膨大な無駄であることを思えば初手に戻って選管を正しく運営できるものにせねばなりません。

 本年度はこの二点に絞って年頭発信しておきます。今年全体を展望すれば不況がさらに深刻化し個々の生活レベルが相当程度なまでに苦しむことになると予想されます。なぜなら、このところずっと政治が逆行なことばかりし続けているからです。こういう時代を生き抜く知恵を見つけねばなりません。主体的な獅子奮迅とたすけあいにより生き延びるしかありません。共に進みませう。

 付言しておきます。昨年末、「生活の党と山本太郎となかまたち」が生まれました。見事な歴史対応力だと思います。政治の本質は共同戦線にあり、互いの違いを踏まえつつ共同する合同するのは知恵がある証拠です。これを称えたいと思います。逆に評する政論があるようですが無視する一手だと思います。

  2015.1.1日 たすけあい党党首れんだいこ拝
 

(無題)

 投稿者:大天使ミカエル  投稿日:2014年12月13日(土)15時26分48秒
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  自公が議席の三分の二を確実にしただけでなく、自民単独で三分の二議席に迫ると予想が出ているが、国民もさることながら民主などの野党が不甲斐ないから自民を増長させる。
共産が議席を倍増させても所詮は焼け石に水。
小選挙区制に適応できない糞政党が比例で議席をのばしても自民の暴走を止めるなど無理。
さらにその民主や共産を支持する脱原発派も人の話を聞かない自己中ばかり。
特にひどいのが、不正選挙などで、煽動記事や意味不明なことを叫ぶRk一味や日刊ゲンダイ、るいネットあたり。
奴らが不正選挙」を連呼すればするほど自民に票がいく有様。

奴らみたいなのがいるから秘密保護法ができるし、某巨大掲示板で言うならあの森田実みたいな‘逆神’そのもの。
奴らなんか死ねよと思う。

来年は安保関係の法律も整備され、へたをすれば、徴兵制が施行され、ニート、ひきこもり、生活保護受給者、精神病患者(特に統合失調症)は優先的に徴兵され、人間爆弾として抹殺されるな。
ガンダムSEEDのフレイやリアルのバカ女、知的障害者やじじい、デイケアや作業所に通う(独立党の みたいに)な家畜野郎ならともかく人間関係がとれず、卑屈な性格の俺までそんな扱いを受けなきゃいけないんだ!!
さらに国際情勢で言うなら、来年あたり尖閣か竹島で武力紛争がおき、さらに中東情勢の悪化が、日本の軍国化に輪をかけ、再来年には、中国との間に戦争が起きたりして。

明日の選挙報道の結果は自民単独の300越えか3分の2越えが確実。
確実に来年は憲法が改正され、徴兵制が宣言ん、法整備され、ニート、生活保護者、精神病患者、特に統合失調症患者は人間爆弾にされるぞ。
自民に票入れた奴や党員は御岳や広島で死んだ面やつらと同じように死ね。
広島や御岳で死んだ奴らは二年前の選挙で自民に入れた奴らばかりだから新で当然。
みんな死ねばいい。
PS:ガンダムSEED第十話で地球連邦軍の一般兵士用の宇宙服を着ていたラクス・クラインと第46話でザフト軍の宇宙服を着ていたフレイ・アルスターでオナニー扱いた。
ガンダムシリーズも含めて、最近のアニメの宇宙服(パイロットスーツは除く)はピチピガ多くて萎える。アニメ、それも女キャラが着る宇宙服はモコモコもっさりに限る。

http://blogs.yahoo.co.jp/mikaeru0628

 

れんだいこのカンテラ時評№1244

 投稿者:れんだいこ  投稿日:2014年11月 9日(日)18時06分36秒
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   手塚説と江口説が矛盾していないなんてことがある訳がなかろうにその2

 手塚とは何者か。「れんだいこのカンテラ時評№1111、補足・小林多喜二の妻・伊藤ふじ子、多喜二研究家・手塚英孝考」で素描している通りである。ここでは、Sが知らしめた省略部分の「合法的に動いていた私たちと非合法の彼とのあいだには何の連絡がなかった」に注目しておく。

 本人の弁で、多喜二の生前に於いて特段の接点がない御仁であったと語っている。むしろ「多少の誤解がある」として「伊藤ふじ子存在説」を証言した江口の方が多喜二と親交が深かった人と云うことになる。その江口氏が、「ふじ子は通夜にも葬式にも見えていない」なる手塚式偽証に異議を唱えていることの重みを受け取るのが筋であろう。

 付言しておけば、「多喜二の通夜の席へのふじ子の存在有無」判断につき、組織防衛的見地からの偽証であればあるほど、手塚如きが決められるべき筋合いのことでもない。ならば誰の指示によるのかと云うことになる。Sレベルの事情通ぶりでは皆目見当がつくまいが、蔵原-宮顕ラインの指示に従っての歴史詐術と云う線は大いにあり得ると窺うべきだろう。

 「ふじ子の来訪と激しい哀惜ぶり」を歴史に刻むか隠蔽するかにつき、これは歴史的行為であるから歴史的眼力で判断して差し支えない。が、一応は当人の考えも聞いて見るべきだろう。これを確認したところ、当人が史実を隠蔽するよう依頼していた形跡はないようである。否むしろ「ふじ子は通夜にも葬式にも見えていない」とする手塚式偽証の方にこそ非人情を感じているのではなかろうかと思える節がある。

 「ふじ子のこの後の生活に傷がつくことを踏まえ、彼女の生活に迷惑をかけたくないから」云々なる思いやり論による偽証正当化は気色の悪いものでしかない。事件から半年後、釈放されたふじ子が、それまで若干の付き合いのあった漫画家の森熊猛・氏の部屋のドアをノックして、「クマさん、今日やっと出されたのヨ。今晩とめて…」と訪ねて来た時、森熊氏にはふじ子と多喜二との仲は公然のことであり、そのことを受け入れた上で二人が睦みあう家庭を持ったのが史実である。手塚式思いやり論のおたく性、詭弁性が知れよう。

 Sの「手塚の事実隠しを宮本顕治の陰謀だと持っていくのは、下衆の勘繰りとまでは言わないが、あまり趣味の良くない推論だろう」の謂いには何の論証もない。云い得云い勝ちの弁でかく云いなして傲然としている。宮顕英明指導者論者のSが宮顕スパイ頭目説を唱えるれんだいこに敵意を燃やすのは分かるが、責任ある発言には多少なりとも論証が必要ではなかろうか。今や、れんだいこ説とS説のどちらが正しいのかが問われている。こういう論点の対立はどちらかが正しく、足して二で割る式の折衷では納まらない。れんだいこは歴史の審判が下るまでの道中を火の粉を払いながら待つことにする。

 それにしてもSの没論理性が気になる。「手塚の不在説は訳ありなのであり、偽証には違いないが偽証事情を忖度せねばならない」と述べ、この線でとどめるのなら一応は筋が通っている。ところが「手塚英孝と江口渙は矛盾していない」と云いなしている。こうなると完全に味噌くそ同視詭弁であり、且つ限度を超しているとみなすべきだろう。こういう論法を使い始めると物事の見境いがなくなってしまう。

 Sへのはなむけの言はこうである。当人は「趣味の良い推論」派を自認しているようだが、罵られた方のれんだいこからすれば、この手合いが高潔紳士として世間に通用しているとしたら気色の悪い、世渡りが上手過ぎるのではないかと思う。
 

れんだいこのカンテラ時評№1243

 投稿者:れんだいこ  投稿日:2014年11月 9日(日)12時29分18秒
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   「手塚説と江口説が矛盾していないなんてことがある訳がなかろうにその1」

 鈴木頌・氏の「"http://shosuzki.blog.jp/archives/11542673.html" 手塚英孝と江口渙は矛盾していない<」にネット検索で出くわした。同ブログは、「"http://6616.teacup.com/rendaico3/bbs/203" れんだいこのカンテラ時評№1111、補足・小林多喜二の妻・伊藤ふじ子、多喜二研究家・手塚英孝考」に反論している。れんだいこ立論1、多喜二虐殺通夜に於ける「手塚の伊藤ふじ子不在説」は偽証である。2、そういう変調記述の背後に宮顕の影があるに反論したつもりになっている。れんだいこが反論への反論をしておく。以下、鈴木頌・氏を仮にSとする。

 Sは云う。手塚と江口の両説は食い違っているように見えるが実は「ウソも方便的偽証」なのであり「手塚英孝と江口渙は矛盾していない」と云いなしている。Sは更に云う。「手塚の事実隠しを宮本顕治の陰謀だと持っていくのは、下衆の勘繰りとまでは言わないが、あまり趣味の良くない推論だろう」。Sはこの謂いを論証している訳ではない。レトリック文に終始しつつ結論を誘導しているだけである。こういう手合いを相手にするのは大変であるが斬り込んでおく。

 Sはのっけから「記事のはじめに、れんだいこさんが省略した部分がある」、「記事の終わりにもれんだいこさんの省略した部分がある」の物言いで、れんだいこ立論を落としこめようとしている。しかし、省略文のところを加味してもれんだいこ立論に何ら影響を与えない。つまり怪しげさを臭わそうとして持ち出しているだけの印象操作に過ぎない。

 興味深いことはSのロジックである。手塚の不在説を偽証と認定した上で庇うという芸当を見せている。その種明かしは「偽証の背景事情を忖度せよ」なる論理論法である。これにより偽証故に評価するという変調話法へと至っている。次のように述べている。「以上で明らかになったことが二つある。ひとつは、どう考えても二人は熱愛関係にあり、ハウスキーパーごときものではないということである。もうひとつは、直接には組織防衛のためではあるが、後には彼女のプライバシーを守ろうという関係者の暗黙の了解があったことである」。

 この論旨自体が粗雑であるが、世の中にはこういう粗雑な論旨に合点する者が居る。類が類を呼ぶ粗脳同盟でしかない。これを論証しておく。この物言いの問題性の第一は、Sがハウスキーパーを格別に蔑視していることが分かるところにある。「二人は熱愛関係にあった故に伊藤ふじ子はハウスキーパーではない」と立論しているが、「熱愛関係の有無」をもってハウスキーパーかどうかの認定基準にするのはSの基準であって一般的なものではない。この辺りはSの同棲観、結婚観、妻妾観、ハウスキーパー観を聞いて見たいところであるが恐らく愚頓な弁を聞かされるだけのことになろう。

 Sの物言いの問題性の第二は、「組織防衛&プライバシー保護&関係者の暗黙の了解」の面からの意図的故意の偽証を正当化していることにある。こういうロジックを好むのが宮顕であるからして、Sには自覚がないだけで実は相当深く宮顕理論、論法に被れていることが分かる。本質的に御用理論であるところに特徴がある。

 この種のロジックによって日共史もソ連共産党史も何度も書き換えられたのではなかったか。こういう論法を認めると適用範囲が際限がなくなるのではないのか。そもそも「偽証の正当化」を誰が認定するのかと云う問題もある。Sはこの種の論法を未だに平然と肯定しているようであるが、陸上競技に例えればトラックランナーとして二周ほど遅れている気がしてならない。

 Sはどうやら今日においても宮顕を戦前共産党運動の英明な指導者と賛美しており、宮顕時代の日共史を極力肯定したがっているようである。この点で、れんだいこの認識と大きく食い違っている。れんだいこは、「宮顕英明指導者論は逆であり、宮顕こそがスパイM以降、スパイMに成り代わる形で登場した共産党史上最大のスパイ頭目である」と批判している。この観点の差が、手塚の意図的故意の偽証を生み、それを容認するSを生んでいると解している。

 断言しておく。Sは手塚の意図的故意の歴史偽証を容認できるものとしているが、宮顕が牛耳り始めた党活動史上に於いて、多喜二の通夜の席に実質的な妻であろうがハウスキーパー的地位であろうが、そういうことに関わりなく伊藤ふじ子が居たことを隠さねばならないほどの運動上の利益は何もない。偽証及びその偽証の正当化を促す動きが認められるが嘘の上塗りの居直り弁でしかない。伊藤ふじ子の多喜二通夜への来訪と激しい哀惜ぶりは、隠すより事実を史実として語らしめた方が歴史に対して真摯である。
 

れんだいこのカンテラ時評№1242

 投稿者:れんだいこ  投稿日:2014年11月 2日(日)21時36分44秒
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   なぜ日本がホロコーストされるのか考その8

 日本思想では労働を好感度的に受け止めているのに対し、ネオシオニズムでは本質的に苦痛なものとして観念化していることを確認した。次に見るべきは、日本思想では概ね生活と仕事が一体であるのに対し、ネオシオニズムのそれは労働を自由抑圧としか捉えていないように思われることであろう。

 マルクス主義的搾取理論も、この系の労働嫌悪観から生まれている気がしてならない。これについては別途考究してみたい。もとへ。この種の労働嫌悪観から奴隷制度が生まれているのではなかろうか。つまり、自分の苦役労働を避けるための代替労働として奴隷が生まれ、これが制度発生の要因になっているのではなかろうか。

 そういう風に考えると、東洋圏からは奴隷制度が生まれていないことが首肯できることになる。東洋圏でも貴賎の差、身分の差は生み出しているが、西欧的な露骨なほどまでの奴隷制、階級差別、階層差別、人種差別は生み出していない。それらはネオシオニズム的思想土壌から生まれているのではなかろうか。なぜなら、奴隷制、階級差別、階層差別、人種差別は選民思想を媒介にせずんば生まれないからである。

 その他、日本思想は***、ネオシオニズム思想は***と色々に指摘できよう。要は日本思想と国際ユダ屋が奉ずるネオシオニズム思想とはこれほどに内実が違うと云うことが分かれば良い。最後をれんだいこ的関心ならではの識別をして締め括ることにする。誰か一人でも得心してくれたら本望である。

 ネオシオニズムでは個と個が良い意味では自律、悪い意味では対立している。その様は決して手放しで礼賛するには及ばないものである。これに対し、日本思想は逆に共同体一員思想に馴染み深く互いに助け合い、分かち合おうとしている。その分、個の自律を弱めてはいる。物事は一長一短が背中合わせなので良いとこ取りはできない。ネオシオニズムは共同体からの自律を求めて自由に憧れる。日本思想ではそれほど自由に憧れない。むしろ自ずと共同体内化する方向に歩み、共同体内での報恩感謝、義理人情に注意を払う。これも大きな違いだろう。

 両者の闘争観、戦争観も違う。ネオシオニズムは相手の絶滅を期して殺し合いなぶりあいイジメ合う。勝者は敗者を殺すか奴隷化する。中途半端な手加減が一番悪いとしている。日本思想は逆である。あらかたの勝負がついたところで手打ちし、勝者は敗者の生息を許す。ネオシオニズムは恨みを歴史に刻み報復戦を聖戦化させる。日本思想では怨恨を水に流すことを尊ぶ。

 ネオシオニズムは、「過ちては認めるなかれ」、「人の過ちには謝罪と賠償を要求し、手前の過ちには言葉巧みに言い逃れるべし」と教え訴訟社会に誘導する。東洋では「過ちては改むるに憚ること勿れ」との教えがあり、日本思想では潔い精神を高潔としている。こういう相違が文化にも出てくる。例えば服装の違いも興味深い。細々とは述べないが洋装と和装の様は何から何まで対比的である。和装が洋装に劣っているなどと云うことは断じてない。和風建築技術、土木技術も然りで西欧に劣っているなどと云うことは断じてない。

 最後に次のことを指摘しておく。ネオシオニズム思想の特殊的に複雑なところは、その二面性二枚舌性にある。連中は、手前達の共同体内部に向けては血統主義、同族主義、民族主義、愛国心を説く。ところが、外部向けには平気で逆の主義を説く。血統主義、同族主義、地縁主義に対して封建的と批判し、民族主義、愛国心に対しては代わりに国際主義を勧める。

 国際法に対してもそうである。イスラエルのガザ攻撃を見よ。手前らは不都合な時には国際法なぞどこ吹く風で縛られない。その癖、都合の良い時には国際法を持ち出して相手を咎める。ご都合主義、得手勝手主義の極みと云うべきだろう。これらは本音と建前の乖離とするより二重基準(ダブルスタンダード)論理論法として見据えた方が良い。ネオシオニズムほど酷い使い分けはないと思う。

 以上、もう少し愚考し続けたいがここで小休止させる。結論として、これほどに真逆な関係にある日本思想とネオシオニズム思想であるからして日ユ同祖論など有り得ないと知るべきであろう。本稿シリーズがこのことを様々に述べ今後の議論の際の一助としたことが誉れである。
 

れんだいこのカンテラ時評№1241

 投稿者:れんだいこ  投稿日:2014年10月30日(木)19時42分39秒
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   なぜ日本がホロコーストされるのか考その7

 ところで、ネオシオニズムは究極無神論であると云うことに同意いただけるだろうか。正確には、神の立場に金貨が座っている訳で、そういう意味では金貨が神であるとする金貨信仰と云えよう。古代宗教の一つに拝火教と云うのがある。これに倣えばネオシオニズムは拝金教である。この拝金主義が桁違いの蓄財主義、資本主義を生んでいると見なしたい。

 現代世界を資本主義体制と判じ、且つこれを歴史法則とみなすのが歴史学や社会科学の教説であるが、れんだいこ史観は異説を持っている。資本主義は歴史法則ではなくて、近代のネオシオニズムが人為的に強制的に持ち込んで出来上がっている体制でしかないのではなかろうかと。人類史の歩みは別に成立し得たところ無理やりに変質せしめられているのではなかろうかと。

 もとへ。ネオシオニズムは金貨こそが万能であり信仰の目標である。確かに金の力で市場の殆どのものが買える訳だから間違いと云う訳ではない。しかしながら、世の諸価値には金では解決できないものもある訳で、しかも大事なものほどそうである訳で、彼らが拝金教を信奉するのは勝手だとしても、彼らがそういう拝金教を他人様に押し付けようとし、従わない者に対する生殺与奪権を持っているとするなら大問題であろう。世界を拝金教ワンワールド秩序に拵えようとするのは無用な軋轢を生むだけであろう。

 そういう意味で、日本思想が対比的なほどに拝金教に被れていないところに値打ちが認められる。日本思想が仮に金権に被れるにしても金貨を自己目的化する訳ではない。ネオシオニズムのように手段と目的を逆転させてまでひたすらに拝金教に凝り被れるものではない。同様に、世界の民に於いては金貨信仰に同意したり酔える者はそう多くはない。大概は日本思想の如くに金貨至上主義を排斥する。

 日本思想では宵越しの金を残さずの江戸っ子気質が賛美されている。「立って半畳、寝て一畳」と云う精神もある。損得から云えば得にならない親兄弟の面倒を見る精神もある。こういう精神をネオシオニズムと比較考量した場合、劣っていたり間違っているとするのは勝手な見立てだろう。

 そういう人生観のみならず労働観も際立って相違している。ネオシオニズムに於いては労働は基本的には苦役な罰的苦痛のものである。これはどうもユダヤ教聖書(キリスト教に於ける旧約聖書)の「創世記」 の記述に影響されているようである。それによれば、エデンの園に於いて禁断の果実を食べたアダムとイブに対し、神は罰としてアダムには労働の苦痛をイブには出産の苦痛を与えることになった。英語の 「ビジネス(仕事)」 の語源は 「ビッジー(忙しい)」 であり、また 「レイバー(労働)」 の語源は 「難儀」 であり、フランス語の 「トラバーユ(働く)」はラテン語の 「トリパーリアーレ(拷問する)」 が語源であると云う。こういう労働観を持つネオシオニズムに於いては、若い時に早く荒稼ぎし、蓄財し、早くリタイアして労働から解放され、余生をバカンス的に楽しむのを良しとするようになる。

 日本思想はその真逆の労働観に立っている。労働できるのは健康な証拠であり、そういう健康を授けてくださる神に御礼を込めて健康な限り働く。「(我が働きで)傍々(はたはた)の者を楽にさせるので傍楽(はたらく)と云う。これが働きの本当の意味である」と云う御言葉もある。そこまで思わなくても、労働することによって却って生き生きとなり、そういう労働をできるだけ長く続けることを願っている。一攫千金型ではなくまじめにこつこつと働き、細々と長く給金を貰う作風を確立している。

 そういう意味で労働が生甲斐であり御用務めである。報酬は相手様のお役に立ってのものであり、人を泣かせて苦しめて我さえ良ければ式の蓄財とは無縁である。日本思想の元々の労働観はかようなものである。かって、我が社会にこういう労働観があったとするのが、れんだいこ史観である。こう捉えないと日本文化、伝統の巧みの技が理解できないからである。

 こういうことも確認しておきたかった。本稿がそういう役目を果たすことになった。さて、長々と続いているので、そろそろ締め括りに向かおうと思う。
 

れんだいこのカンテラ時評№1240

 投稿者:れんだいこ  投稿日:2014年10月25日(土)21時42分17秒
返信・引用
   なぜ日本がホロコーストされるのか考その6

 日本思想とネオシオニズム思想の違いが最も端的に集約されているのが天地創造譚である。思想上は天地創造譚こそ万物発生のルーツであるから、これを重視する必要がある。確認するに両者の天地創造譚に於いて、その際の神の規定がまるで違う。

 日本思想は「HOWTO哲学」を基調とする機能論から、それぞれの機能を持つ八百万(やおよろづ)神々の御業(みわざ)を媒介させつつ天地創造を説いている。その最高神は慈母的である。ネオシオニズム思想は「WHY哲学」を基調とする真理論から、絶対的な権能を持つ唯一神の御業を媒介させつつ天地創造を説いている。その神は厳父的である。この辺りについては既に「"http://08120715.cocolog-nifty.com/blog/2014/08/post-f236.html" "ホロコーストの原義考」で「要するに、ユダヤ教と日本神道では神と人との関係が全く逆なものになっている」と述べているところである。

 ネオシオニズムは、これを如何にも思弁的に説く。この思弁能力によって他の思想よりも高位の理知思想であると自負する。返す刀で日本思想を低位なシャーマニズム(Shamanism)レベルのものと評している。しかしこういう仕分けこそがネオシオニズム優位の結論をもたらすヤラセ問答に過ぎないからしてナンセンスなものでしかない。

 実際には両者共に理知能力、思弁能力、シャーマニズム能力を備えている。ネオシオニズムはより多く語ることに意義を見出し、文書にする作法がある。日本思想の方は逆に感得を重視させているので少なく語ることに意義を見出し、文字で説き明かすことを危ぶみ不立文字に憧れている。そういう差があるが、その差でもって中身の判定にまでは及ぶべきでないと考える。

 ここまではまだ良い。問題は、天地創造譚から導き出される被創造物の諸々の関係にある。これは次のような構造になっている。即ちまずは「神と人との関係」が基準になり、それが「人と人の関係」に適用される。次に「人と人の関係」が基準になり「人と他の生物との関係」に適用される。最後に、これらが基準になり「人類と自然との関係」に適用される。これが両者ではどうなっているのだろうか。

 日本思想では、「神と人との関係」では人類は神の氏子であり、「人と人の関係」では氏子間は一列平等である。仮に現実の社会にどんな階級、階層が生まれようとも思想原理的には一列平等を旨として関係づけられている。「人と他の生物との関係」は生態系を乱さない捕食関係、用役関係を保つ。「人類と自然との関係」も然りで互いに調和的に関わっている。自然の恵みを享受し、自然の摂理を聞き分け、それに合わせて御す賢明さを求めている。

 然るにネオシオニズムでは全てが逆である。「神と人との関係」では人類は神の氏子であるとしても、「人と人の関係」では氏子間は平等ではない。創造主の意志だとしてユダヤ人が選民特権を享受しており、他の民族はユダヤ人の家畜類的ゴイムと位置づけられている。ユダヤ人が創造主の意志により世界の民を支配する権利を得ており義務を負っていると云う。この傲慢な思想を「ユダヤ選民主義」と云う。

 このことを、ユダヤ聖書が神の御言葉として次のように記している(「ウィキペディア選民としてのユダヤ人」参照)。「今、もしあなたがたが、本当に私の声に聞き従い、私の契約を守るなら、あなたがたは全ての国々の民の中にあって私の宝となる。全世界は私のものだから。あなたは私にとって祭司の王国、聖なる国民となる」(出エジプト記19章5、66節)。「主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも多かったからではない。事実、あなたがたは全ての国の民のうちで最も数が少なかった。しかし、主はあなたがたを愛された。また、あなたがたの先祖達に誓われた誓いを守られた」(申命記7章7、8節)。

 ユダヤ人は、この独特の選民主義によりユダヤ人に都合の良い論理を振り回すことになる。「人と人の関係」では弱肉強食型競争論、「人と他の生物との関係」では収奪的捕食関係論、「人類と自然との関係」では人類による自然支配論を編み出している。ユダヤ聖書は、神の御言葉として次のように記している。「生めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」。この神言の「生めよ、増えよ、地に満ちよ」は良いとしても、「地を従わせよ、生き物をすべて支配せよ」とする必要がどこにあるのだろう。

 れんだいこが見立てるところ、ネオシオニズムのこの奇矯な選民思想が全ての悪事の始まりのように思える。この選民主義が独善主義と排他主義、排外主義を生み、それに基づく支配思想、征服思想を生んでいる。それが人に対しても民族に対しても社会に対しても国家に対しても自然に対しても向かう。その完成態が、イスラエルの民を指導民族とする秩序であり、これこそ創造主に命じられた正義であるとして、その為の永続革命に向かう。

 かの時、出エジプトを成功させた霊能指導者モーゼが、ユダヤ選民主義の行き過ぎた独善主義を避けるべく「十戒」を授け、思想に重石をつけてユダヤ教に平衡感覚をもたらした。ユダヤ教がこの戒律を踏まえる限り思想にブレーキが掛かり平穏化する。問題はモーゼ戒律を外したときのユダヤ教である。興味深いことは、ネオシオニズムはユダヤ教内の反モーゼ主義派であり、そういう意味での原理主義である。このユダヤ教原理主義に悪魔主義(サタニズム)が加わるとどうなるのか。ネオシオニズムの怖さ危うさがこの辺りにある。
 

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