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『ホムンクルス』&『ヒミズ』

 投稿者:谷 昌親  投稿日:2009年 7月22日(水)10時30分45秒
返信・引用
   大橋君、発表お疲れさまでした。大変遅くなりましたが、感想など書いておきます。
 今年度の発表の中では、唯一、漫画を扱ってもらい、このジャンルについて考えるきっかけになりました。無意識の視覚化というわかりやすい例を出してくれたのもよかったと思います。ただ、『ホムンクルス』は、おそらく読んでいけばそれなりにおもしろいと思うのですが、少なくとも無意識の視覚化ということに関しては、その実例を見せてしまえばそれで話は終わってしまうので、たしかに他にはあまり見ない試みではあるけれど、それいついて論じようとするとき、あまり発展性がありません。これに近い無意識の視覚化の例を探してきて比較するか、あるいは、少し発表のなかで言ってくれましたが、無意識が視覚化かされることで、主人公と他の人物の関係がどう変わり、自分自身との向き合い方がどう変わるか、といったあたりを見ていくか、といったところがとりあえずは考えられる方向性でしょうか。
 その点、もうひとつの『ヒミズ』のほうが、出てくる「一つ目の怪物」の正体がはっきりしない分、いろいろと考えることができそうです。とくに、発表の最後のほうにあったように、「現実こそ時に残酷で不気味」だという発想は大事な気がします。

 さて、その上で、こうした作品の扱いずらさのようなことについて、少し考えてみましょう。ひとつには、漫画というジャンルも関係していますが、それだけではありません。
まずは、ジャンルに関係してくる問題ですが、絵画と同じで、漫画も、基本的には作り手のなかだけで展開する世界を描きます。現実の風景や人物を作品に入れたりしますが、それも一度作り手のなかを通して出てきたものとして描くわけで、ある意味では、思い通りの世界を描くことができるわけです。逆に言えば、すべては作り手の意思のままになるわけで、無意識が入りにくいということにもなります。そうした制作の仕方のほうが、作り手の個性が出やすいと考えるのが普通でしょう。実際、そうした面もあるのですが、その一方で、人間というのは、意外に独創性に乏しい生き物でもあります。独創的なことをやっているつもりでも、人まねになってしまったり、パターン化してしまったりということはよくあります。紋切り型から抜け出すことはそれほど容易なことではありません。したがって作り手にとっては、自分がつねにやっていること、自分の意識からどうやって外に出るか、無意識をいかに自己の制作に持ち込むかが大事になると思うのです。シュルレアリスムの画家たちがオートマティスムをはじめとするさまざまな方法を使ったのもそのためですが、もともと、それ以前の画家たちも、それぞれの仕方で無意識を探求していたと言えます。インスピレーションなどという言い方をしますが、これは日本語では霊感と訳されたりするように、まさに外からやってくるもの、作り手にとっては無意識といっていいものです。それをどのようにして見出すかで、作り手たちは苦労しているわけです。

 一方、写真や映画の場合は、作り手が自分の肉体だけで制作するわけではなく、カメラという機械が介在します。それだけに、作り手の思い通りにならない部分が最初から存在するわけで、無意識的なものが入りやすいといえるでしょう。つまり、外界を自分のなかに取り入れて、思い通りの仕方でアウトプットするということがしにくいわけです。作り手は、外界を取り入れるのではなく、外界と対峙せざるをえない。そこから、作り手の思い描く世界と、作品に表われてくる世界の間にギャップが生じます。それを無意識と呼んでもいいでしょう。その無意識は、画家が求めているものとは少し種類が違うこともありえますが、作り手の外部からやって来るという意味では、共通しています。写真や映画の場合は、そうしたかたちで無意識が生じやすいのですが、その無意識に慣れてしまうと、ここでもパターン化が生じ、無意識は無意識でなくなってしまいます。ですから、写真や映画においても、無意識の探求は必要なのです。

 さて、今回の発表で取り上げられた漫画ですが、『ホムンクルス』の設定自体はたしかにおもしろく、ここにはある種のインスピレーションが働いたと言えるかもしれません。しかし、漫画自体を読んでいても、とくにその表現の面で、写真や映画の場合に作り手と外界のあいだに生じるギャップのようなもの、軋轢のようなものを感じるかと言えば、少なくともぼくはあまり感じることができませんでした。作者が、物語を効率よく視覚化するための表現ではあっても、それ以上のものはあまり見当たらず、それこそスムーズに読み進めてしまうことができます(もちろん、ぼくはこの漫画をそれほどしっかりと読んだわけではないので、あくまで第一印象にすぎませんから、本当は、もっと読んでから判断すべきなのですが…)。その点、『ヒズミ』のほうが、ひっかかりはあるような感じはしました。ここでいう「ひっかかり」とは、逆に「余白」という言い方をしてもいいのですが、要するに、作者が自分の思い通りの世界を描き、物語やテーマをストレートに伝えているという行為からのズレとして生じてくるものです。漫画の場合なら、たとえば、筆致やコマ割りが、物語りやテーマとは必ずしも関係なく、読み手になんらかの働きかけをしてくる事態のようなことを考えることができるかもしれません。そうしたものがぼくの考える無意識なのですが、少しはわかってもらえたでしょうか。
 いずれにせよ、最終回の授業で、もう少しこうしたことを考えてみたいものです。
 
 

黒沢清

 投稿者:谷 昌親  投稿日:2009年 7月14日(火)11時42分51秒
返信・引用
   内貴さん、阿部さん、発表お疲れさまでした。遅くなりましたが、感想めいたことを書いておきます。
 当初は3人での発表の予定が、急遽2人になったりで、なにかと準備が大変だったと思いますが、パワーポイントも作ってくれたりで、充実したものになりました。このところ、「無意識」のとらえ方に揺れがありましたので、まず「無意識」の一種の定義をしてくれてからはじめてくれたのも、よかったと思います。以下、気づいた点などを箇条書きにします。

・黒沢清は、現代の日本映画においてきわめて重要な存在ですので、そうした映画作家を扱ってくれたことはよかったと思います。しかも、黒沢清の場合、一般的にはホラー系の作家と見なされていて、ホラーというジャンルとの関係で論じられることが多く、実際、そのほうが論も立てやすいのですが、今回は、そうしたジャンルの枠を離れての黒沢清論ということで、意欲的な発表だったといえます。

・ただその一方で、やはりホラーというジャンルからの視点を外すと、黒沢清について論じるのがむずかしくなるのも事実で、そのあたりの困難さが今回の発表からも浮き彫りになった部分もありました。つまり、作品論としてある程度まで成り立っても、黒沢清論にまで辿り着かない、というところがあります。もちろん、作品論としてしっかりできあがっていればいいのですが、すぐれた作品論には、ある程度までは作家論の裏打ちがあるのが普通です。その裏打ちの部分がやや希薄になってしまうのです。

・以上は大枠の話ですので、もう少し細かい話をしておきましょう。今回の発表は、同じ黒沢清を扱っていても、内貴さんと阿部さんでは、やや位相のようなものが異なっていました。内貴さんが作品のいわば形式面にこだわったのに対し、阿部さんは内容にかかわるものにむしろ焦点を合わせていました。このように分かれること自体はかまわないし、ある意味では、黒沢清をよりグローバルな視点から見ることができるので、好ましいとも言えるのですが、両者の関係がはっきりしないため、聞いているとやや散漫な感じがしてしまいます。形式と内容の関係のようなことをどこかで言ってくれると、全体がもう少しまとまった感じがしたかもしれません。そうでなければ、これは準備がかえってむずかしくなるかもしれませんが、2人が同じ作品を扱い、それぞれ形式と内容について論じるという手もあったかもしれません。

・内貴さんの担当部分は、黒沢清作品における非合理的な側面を扱ってくれたもので、いろいろな例を挙げてくれておもしろかったのですが、それぞれの例が提示に終わっている部分があり、しかも例どうしの関係がはっきりしないので、羅列したという印象が強くなってしまいました。もう少し整理ができると、おもいしろい黒沢清論になるかもしれません。

・阿部さんの担当部分は、言ってみればアイデンティティの揺らぎのようなものが問題になっていて、そこに垣間見えてくる「自分ならざる自分」のような部分がそれこそ無意識であり、それは黒沢清においても重要なテーマであるような気がします。そのことと、廃墟や音の問題をもう少し密接に関係付けられると、これはこれでまた、すぐれた黒沢清論になる可能性を秘めています。

・発表についてのコメントの中で、黒沢清自身が「超現実」と呼ぶものこととが紹介されていましたが、その「超現実」は、シュルレアリスムの「超現実」とはまったく異なるものです。黒沢清が言っているのは、映画の中だけの約束事のようなものが、現実世界ではありえない事柄であるといった事態のことです。これはむしろ、今回の発表で定義された
「無意識」を抑圧してしまう制度的なもの、と言えるでしょう。
 シュルレアリスムの「超現実」に近いのは、今回の発表の内貴さん担当箇所のレジュメに出てきた「違和感=超現実」という部分だと思います。この種の違和感は、映画での約束事に反しているために出てくることが多いわけで、それは理性による統御や合理的な組み立てからは洩れおちているものに関係しています。もっとも、だからと言って、黒沢清の映画がシュルレアリスム的ということには必ずしもならないとは思いますが。
 

黒沢清

 投稿者:中井 智浩  投稿日:2009年 7月14日(火)03時43分41秒
返信・引用 編集済
  発表、お疲れさまでした。授業での感想を繰り返す形になるかもしれませんが少し書かせて頂きます。
立教大学の学生時分、黒沢清をはじめ、万田邦敏、塩田明彦、青山真治達は蓮實重彦の授業を受けていました。当初、教室いっぱいであった受講生も「黒澤明は凄い監督ではない」といった内容に次第に減っていき、残ったのが黒沢清たちでありました。そこで蓮實が教えたのは画面に何が映っているか、ということでした。その表象を通じ、意味に還元出来ないものを無根拠に肯定すること、それが彼の批評であったのです。その例として揺れる葉、レースが挙げられると思います。黒沢の映画は蓮實の教えに強い影響を受けています。それがどういった所か、良く用いられる例に留まらずに発見していく試みというのも黒沢清の無意識を考える上での一つの方法かな、と思います。勿論、彼に影響を与えたのは蓮實だけではありません。取り敢えずは相米慎二の名を挙げることが出来るでしょうし、影響を受けたホラーに関しては「映画はおそろしい」というDVDシリーズがあるのでそちらで見ることが出来ます。
他のアプローチとしては『アカルイミライ』で少女が生き残ることを指摘していましたが、『トウキョウソナタ』でも少女は取り残されますし、『蛇の道』でも少女が一人映し出されている場面で静かな怖さを感じました。少女を通して黒沢の映画を見直すのも面白いかもしれません。また「感染」、「人の消失」、「首つり」などもいくつかの作品で共通する現象だと思います。
あと発表で気になったのはその構成です。黒沢清の無意識を検証した③のことですが、三作品を並列したことで何かしらの機能を果たしているようには思えません。また何故その三作品なのかも気になる所です。
また黒沢清の作品では癖のあるスタッフがいることがあるので、それも注意しておいた方がいいと思います。録音の菊地伸之、脚本の高橋洋など。
さらに黒沢清の場合、美学校関連の作品や朗読番組も手がけていますし、芸術大学での教え子の作品に彼の影響が出ているものもありますし、色々考察の方法がある一方で正確さを求めると中々難しいものがあるかもしれません。
とかく面白さ、輝きを肯定することは難しい。どうしても理由付けを行いたくなるからです。故に無意識の探求とは、言いたいけど言えない、もどかしさがつきまとうのかもしれません。
 

紀信&『裸の島』

 投稿者:谷 昌親  投稿日:2009年 7月 7日(火)11時00分20秒
返信・引用
   有吉さん、竹内君、発表お疲れさまでした。遅くなりましたが、感想めいたことを書いておきます。
 一週間前の打ち合わせの時点では、2人で同じテーマを扱うという案もあったくらいですから、紆余曲折があったということにもなり、事実、やや心配もしていたのですが、結果的にはなかなかいい発表になったと思います。以下、箇条書きで記します。

・有吉さんの篠山紀信論ですが、篠山の写真、とくにヌード写真に対する関心がよく表われていて、そういう意味では、いい発表でした。ポルノと芸術のあいだ(あるいは双方の枠を超える)という考え方や、欲望の共有という発想もおもしろかったと思います。見せてくれた写真をもとに、「コラージュ的ヌード」という説明があったのも、興味深いものがありました。
・ただ、その一方で、篠山は自分の主体を消して見る側のひとりとして自分の写真を見るという説明は、理屈としてはわかるし、おもしろいのですが、具体的な作品に即して考えていくとどうなるのか、といったあたりがわからず、聞いているほうはやや消化不良になります。
・打ち合わせのときに聞いた話だと、有吉さんは「作りこんだ写真」に興味があるということだったので、そこから、「お膳立てした『偶然』」とか、「嘘の嘘は真実」というような言い方も出てきたのでしょうが、そのあたりの説明をもう少し詳しく、具体的にしてほしい気がします。そうでないと、篠山と他の写真家の違いもはっきりしてこないでしょう。これも打ち合わせのときに聞いたことですが、アラーキーの写真にも興味があるということで、同じ年生まれの篠山と荒木はいろいろな意味で対照的な存在ですが、作りこんだ写真を撮るという側面は双方にあります。そのうえで、篠山なら篠山の特性も浮き彫りにしておかないと、厳密な意味での作家論にはなっていかないでしょう。
・とはいえ、話を聞いていて、篠山紀信の写真の特徴が前よりすっきりとわかるような気になった部分もあります。篠山の写真には、どこか無機質というか、メカニックというか、そうした感じを抱かせるものがあるのですが(特に、都市を撮ったものなどに顕著な気がします)、その背景のようなものが少し見えてきたように思います。またいつか、荒木経惟についての話も聞いてみたいものです。

・竹内君の「ストーリーと映像」は、新藤兼人の『裸の島』を素材に、シナリオと実際の映像の違いを検証したものでした。どうして『裸の島』なのか、という点については、これも打ち合わせのとき、台詞のないシナリオのほうが映像に近いはずで、そうしたシナリオでさえ実際の映像とはずれてくる、というところを見たい、という話でした。あえて困難な道を選んだとも言えるわけで、どうなるかとやや危惧していた部分もあったのですが、「映像は必ずストーリー以上のものを伝える」という結論を納得して聞ける発表になったと思います。
・『裸の島』からの具体的な例もおもしろかったのですが、見せてくれた部分について言うと、最後のラジオ店のテレビのシーンについては詳しい説明がありましたが、最初のほうのチコカン祭のあたりは、どうしてそこを見せてくれたのか、あまり説明がなく、わかりにくかったですね。おそらく、祭の描写などが、シナリオよりも実際の映像において、より豊かになっているということなのだろうと推測しましたが。
・ラジオ店のテレビのシーンも、説明はよくわかるのですが、聞いている側は、島での厳しい生活の描写を見ていないので、それとの落差のようなものを感じ取りにくかった部分があるかと思います。時間的な制約もあるのでむずかしいのですが、そのあたり、もうひと工夫がほしい気がします。
・そういう意味では、次の『コントラクト・キラー』の例のほうがわかりやすかった部分もありました。ただ、そうなるともうシナリオと映像の関係ではなく、発表のタイトルでもある「ストーリーと映像」の関係になります。タイトルもそうなのですから、あまりシナリオとの関係にこだわりすぎず、むしろそちらの方向で発展させたほうが、おもしろい論になるような気がします。

・今回、2人はとくに申し合わせをしたわけではないでしょうが、どちらも、ある枠にはめて作品を作っていながら、その枠から外れるものが入り込む(あるいは、枠をはめるからこそ、そこから外れるものが出てくる)という現象を扱っていたように思います。そうした枠から外れるものを無意識と呼んでもいいのかもしれません。
 

篠山紀信と新藤兼人

 投稿者:中井 智浩  投稿日:2009年 7月 5日(日)23時44分30秒
返信・引用 編集済
  写真と映画という二つの媒体の発表が聞けて新鮮でした。

有吉さんの発表は「主体不在の写真」、「虚構を虚構で飾る」という二つのテーマはとても興味深いのですが、まだその魅力を汲み尽くしているとは言い難いのでその質的検討をレポートでしてもらえたら面白いと思います。岩佐さんも言っていたけど例えば荒木経惟との比較をする事で具体性を高めるなどは出来ると思います。モデルの女性の身体の線に着目した発言もされていましたが、それは照明による所が多いと思います。モノクロであれば白と黒が明瞭にあらわれる様な、しっかりとピントが合っている明瞭さ、或は「明らかさ」が有吉さんのいう「健康的」なものに繋がるのではないかな、と私は考えていました。最近見直した大島渚の「愛のコリーダ」(76)も主役に実際に性交を行わせる革新的なポルノ映画ですが、それを誤摩化したりしない眼差しが、映画を猥雑さとは無縁の代物にしていました。猥褻なものが初めからあるのではなく、それは規範により作られるものである事を大島は後の裁判でも主張しますが、その点モザイクなどの処理が却ってそれを意識させてしまう、という事はあると思います。

竹内さんの発表は脚本には還元しきれない映画の魅力という文脈の中で新藤兼人が取り上げられる事にまず驚きました。映画狂にとって彼は見ず嫌いな人にされやすい印象があるからです。何といっても脚本家のイメージが非常に強いですし。しかし、だからこそその意識化された脚本と実際の作品の差異を取り上げるといった発想はとても面白いですし、新たなる場所に光りを当てるのはとても大切だな、と思いました。個人的に気になったのは必要性を超えた意味というのは多かれ少なかれ映画に表れるわけで、問題は如何にそれに対応するか、という事にあると思う。それに関する新藤兼人の情報があれば、彼の再評価にも繋がってくると思う。あと、「ストーリーと映像」というタイトルにしても(映画でなく)、『裸の島』にせよ、カウリスマキの作品にせよ台詞の少なさに魅力を感じている所がある。そしてそれが前提となっている気がする。その点をより説明すれば更に明瞭なレポートになると思う。

二人の発表を通して気付いたのは有吉さんは篠山紀信の写真に「意味が無い」と繰り返し述べていたのに対し、竹内くんは映画に必要性を超えた意味を見ているという点。これを単なる表現の問題として処理していいのか、いや写真と映画に関わる問題ではないか、という問を提起して取り敢えず終わりにします。
 

Re: 感想

 投稿者:kowaka  投稿日:2009年 7月 2日(木)06時01分14秒
返信・引用
  > No.18[元記事へ]

書き忘れましたが、先生のいう作品の無意識について。
講義のレジュメ(no.1)にある、作家のメタレベルのシニフィエを欠くシニフィアンこそが
「作品における無意識」なのでしょう。
このような点からの考察はほぼ無限に広がりますし、この授業で扱われるべきだと思いました。それはある程度権威のある文献にあること以外の視点が提示される可能性を含んでいますし、シュルレアリスム以外の芸術作品にもいえる本質を内包していると思うからです。

長いこと出しゃばってすみませんでした。
では失礼します。
 

Re: 感想

 投稿者:kowaka  投稿日:2009年 7月 2日(木)05時40分46秒
返信・引用
  > No.17[元記事へ]

遅くなってしまいました。
発表しました小若です。当日は遅れてほんとうに申し訳ございません。

谷先生>ご指摘ありがとうございます!
仰る通り、もっと比較を行うべきでした。だまし絵や、トリックアートとの比較を考えましたが時間的に叶いませんでした。。
なので、少しですが掲示板ではそれについて触れます。
1サイトを見たのみですが、このサイト(www.brl.ntt.co.jp/IllusionForum)に『婦人と老婆』という作品が掲載されています。その解説としてこのような文がありました。(以下)
ある一つの図形を、Aという対象としてもBという対象としても認識できるとき、AとBが両方同時に知覚されることはないと考えられています。つまり、片方(例えばA)が意識に上っている瞬間は、Bは意識下(すなわち無意識)にある、ということです。
以上ですが、これにおけるBで構築されうる現実が超現実ではないかと考えました。これに対する自分の意見は後述させていただきます。

ダリの作家論として完成度が低く一般論に終わるという指摘に関しては、ダリのシュルレアリスム期以外の作品や生い立ち、行動を組み入れた考察にするべきでしたが、これもまとめきれませんでした。自分は実際に作品を鑑賞することでしか、今回の発表にある程度のオリジナリティを組み入れられないと考えたので、とりあえず彼の絵を眺めていました。その時に彼の描いたものの多重性が思っていたより深く、多かったです。(ナルシスが3体も同じ姿で描かれているとは!)その点で、取り上げる作品が恣意的になってしましました。やはりダリの作家論として反省点しかないですね。

前川さんからだったと思いますが、顔さんの発表に対する質問として「なぜ絵画の必要性があるのか」というものがでました。顔さんは広範囲に及ぶ問題と回答されていましたが、まさにその通りで、写真などの方法登場以降はより強い意味のある質問であると思います。
前回の発表で自分のいた班では、「今現在の実現性の高い方法であるカラー影像(リンチ作品)より、『アンダルシアの犬』における白黒影像のほうがリアルに気持ち悪い。」という意見が出ました。その理由として以下が自分の考え、もしくは班の考えをまとめたものです。
まず前提として作品中の世界は非現実だということがあります。それに加えて以下のテーゼを考えました。★作品中の描写が我々の現実に近いほど、作品中の世界との差が際立つ★つまり、我々の現実と同じレベルの影像を見た際に、我々はそれを「ほぼ現実」として受け取る。これは「谷先生がこの授業で重視しない無意識」のうちに行われていると思います。この場合、われわれは「こんなの現実じゃねーよ」みたいな側面が強く印象に残るように思います。
では、「そもそも現実たり得ない絵画」ではどうか?自分は、★写実的でないが故に写実性が強調される★という逆説があるように思います。もはや、現実に非常に近い描写がされた絵画に価値は見出されないでしょう。なぜなら写真には劣るから。しかし、逆に言えば現実との差異は黙認されるといえないでしょうか。
では、写真の登場以降の絵画における”写実性”とはなにか?まさに今現在非現実と考えられる世界、風景を”写実的”(リアル)に描き、実感させられる点だと思います。これは以下の意見につながります。

Hashimotoさん>コメントありがとうございます。拙いというか強引ともいえる発表にコメント頂けて嬉しいです!質問?の回答と自分の考えを書かせてもらいます。

『ルビンの壷』というトリックアートの作品があります(上記URL記載)。この作品では、黒い背景が壷のかたちに切り取られて二人が対面しているように見えます。さて、この絵ですが、これは現実世界で我々が見ることのできる現象、もしくは風景でしょうか?この壷と人の位置関係は、人が手前で壷がそれより後ろにあるはずです。さらに、この絵の視点(=鑑賞者の視点)から見ると光は壷に当たっていると仮定します。すると、光源は鑑賞者の背後にあると考えるのが妥当でしょう。では、光源が鑑賞者の背後にあるとすれば二人の顔は光に照らされているはずです。よって、この景色を我々が現実で目の当たりにするのは不可能と考えます。これを不可能にしているのは光と影、もしくは“ヒト”の視覚の制限のみだと言えないでしょうか?

この点において、これが見えるような世界は超現実といえないでしょうか?私は、超現実が、現実離れではなく、「人間の知覚、認識に収まらない現実」、という点に大きな関心を抱きました。「人間の知覚、認識に収まらない現実」とは自分なりの解釈ですが。。。以上をつなげて説明してみます。さて、「今からこの世界を作りかえてみましょう。」という試みがなされた場合、「自動販売機を全部★型にして、人間の髪色は全員グリーンでモヒカン、手にアリの巣を設けましょう」(サイケデリック!)とします。このような表現はシュルレアリスムの絵画でなされたことでもあると思います。違うかもしれませんが、ニュアンスが伝われば幸いです。しかし、このような方法や変化させる領域は「非現実的」です。(少なくとも自分にとっては)。では、光の当たり方、見え方(我々の“ヒト”としての視覚)が変化したらどうか?ちょっと現実味がありませんか?自分はマグリットの空だけが昼で残りは夜の作品を見た時、結構衝撃的でした。(ダリの発表でマグリットかい!いうツッコミは受け付けないということで笑)それは妙にリアルに違和感を感じたからです。この理由として、光とそれに関わる理論諸々は、科学的理論として理解している側面が強く、比較的不確定要素の多さがあると考えました。要するに、人間の身体の構造より光に関することのほうが抽象的で概念的ではないかということです。イリュージョンという概念を日高敏隆という人の著書で読みましたが、hashimotoさんは分かりますよね。あれの概念的イリュージョンです。要するに、概念の変化のほうが、身体的特性による実感として経験されるものの変化よりありえそうではないか?ということが言いたいのです。その部分を変質させることで現在のいわゆる現実と違う現実(超現実!?)をつくるほうがリアルかなと考えました。
さて、ダリの作品についてですが、ダリは今の現実と、この場合での現実の妥協点、つまり「ギリギリ見えるかも」を描いているように思いました。この意味でも写実的と考えます。具体例として、『怪物~』(すみません、作品名忘れました><)で中央にいる人の指は異様な形であるが、よく見ると、影の多さ、暗さの度合いが変えられているだけということが挙げられます。他の作品でも多重影像を生む方法として、「どこが光に当たって見えているか?」。「光源の位置」を問う手段で行われているように見えました。
Hashimotoさんの質問に対する答えとして、ダリはこのように★より実現可能性の高い手段で超現実にアプローチした★と言いたいと思います。が、正直、全作品を通して一貫したものではない点や、この方法により、ダリの本質とは決定できない点として、谷先生の指摘を解決できていない穴があります。
言い訳に出来ないですが、忙しかったのでこれはこの先考えられたらと思います。個人的にシュルレアリスムのなかでも特に興味深い画家がダリなので、これからじっくり考えられたらと思います。余談ですが、好きなアーティストの一人、Iggy Popが今日読んだ雑誌のインタビューでダリのパラノイア・クリティックを挙げていたので、より興味が湧きました:)
ほんっとに長々とすみません!読んでくれた方、ありがとうございます!!
 

感想

 投稿者:hashimoto  投稿日:2009年 7月 1日(水)01時11分5秒
返信・引用
  発表お疲れ様でした。
発表者の方よりも先にコメントしてしまいすみません。
お二人の発表をきいて感じたことを整理するために、感想を書いてみようと思います。

【小若君の発表に関して】
僕たちの発表でもダリは登場したので、前の発表と(より直接的に)関連させて考えることができました。ありがとうございました。
ダリの面白いエピソードなども聞くことができ、いつもとまた違ったおもしろさがありました。
説明の言葉も的確でした。
言葉だけで説明しようとすると、ちょっと難しい内容かなとも思いますが、説明のしかたが上手だったので比較的わかりやすかったと思います。
ただ、正直なところ僕も先生のご指摘には賛成です。
発表の中で(『ナルシスの変貌』だけでなく)、もっといろいろな絵画をとりあげられたらもっとよかったのではないかと思います。
発表の最後に僕は「<多重影像>という言葉を独自に使ったんですか?」と質問しました。
なんであんな質問をしたのかというと、「影像」は本来「絵画や彫刻にあらわした神仏または人の姿(広辞苑第五版より)」っていう意味があるからです。
あと、「影」は「光」があたることによって生まれます(当たり前ですが)。このことはなんとなく、先生が授業の冒頭でお話になっていた「世界を切り取る」ということに似ていないかなと思いました。
このあたりについてはどのようにお考えだったのでしょう。

【顔さんの発表に関して】
顔さんは発表の最初のほうで「夢の記述」と「オートマティスム」を同一項で括っていたように思います。
僕たちの発表では、「夢の記述」と「オートマティスム」を対立するものとして置き、シュルレアリスムはまさにそれらの間を行ったりきたりしたという話をしました。
最終的にブルトンは、マグリットと決別し(オートマティスムの方向へと戻っ)てしまったということも考えなくてはいけないように思います(このことは小若君のとりあげたダリに関しても同様ですが)。
顔さんの発表に対する先生のご指摘にも、やはり賛成です。
顔さんが「記号」性と説明していたのは(文学部の鈴木先生の言葉を借りるならば)、「絵」と「記号」の間の「図」あるいは「キャラクター」の性質といえると思います。

失礼しました。
 

ダリ&マグリット

 投稿者:谷 昌親  投稿日:2009年 6月29日(月)00時50分31秒
返信・引用
   小若君、顔君、発表お疲れさまでした。今回はダリとマグリットという2人の画家を作家論的に扱ってくれ、そのなかで無意識についても的確な言及があり、そのせいか、質問もいろいろと出ましたね。全体によくまとまっていたと思いますが、以下、気づいた点などを箇条書きにしておきます。

・小若君のダリ論は、よく調べてありますが、すこし厳しい言い方をすれば、まだ紹介の域を完全には抜けきっていない印象が強いですね。ダリの特徴をよく掴んでいますし、彼の絵を夢や子供の価値観と比較するのもいいと思いますが、もう少し具体的にダリの作品に迫っていかないと、一般論で終わってしまっているように見えてしまいます。二重イメージがダリの特徴であるのは確かですが、二重イメージを使ったら誰でもダリのような絵を描くかといえば、それは絶対にないはずです。どうしてダリの絵はあのようなものになるか、そのあたりをもう一歩踏み込んでほしいと思います。そうすれば、無意識についての考察もさらに深まるでしょう。

・顔君の場合も、具体的な作品分析などがあまりなかったのはやや物足りないのですが、『恋人たち』について、母親の死の記憶の影響を指摘してくれるなど、少し踏み込んだ部分もありましたし、精神分析における無意識についての考察をしてくれたり、マグリットの絵の一種のパロディが使われたCDジャケットを紹介してくれることで、そのあたりはある程度まで補われていました。

・顔君は、マグリットの絵の特徴を「記号的表象」と述べていましたが、たしかにそういう側面はあるものの、「記号」という言い方は誤解を招きかねません。記号は、通常、指示対象が明確にあるのですが、マグリットの場合は、指示対象があるようでない、というのが特徴なので、この点は、別の言い方をするか、「記号的表象」と呼ぶにしても、もっと説明を加える必要があるでしょう。
 ちなみに、マグリットには、パイプを描いていながら『これはパイプではない』と題した絵をはじめ、その種のモチーフと題名のずれのある絵のシリーズがありますが、これがまさしく上の問題にかかわっています。これについては、有名なミシェル・フーコーの本もありますから、興味のある人は読んでみるといいでしょう。
 質問のなかに、マグリットは自分の絵をどのように見てもらいたかったのか、というものがありました。マグリットの側が直接そうしたことを言っているという記憶はぼくもありませんが、彼はいろいろと文章も残していますし、『これはパイプではない』のシリーズを見るだけでも、彼が絵画について、あるいは絵画をとおして、どのようなことを考えていたのかは、ある程度はわかるはずで、そこから、彼が自分の絵をどのように見てもらいたかったのかと推測することは可能だと思います。

・この掲示板に騎馬君が書き込んでこととも少し関係しまずが、作家論的なアプローチをする際、当然ながら、作家本人がどのように考えていたかを調べ、把握するのは大事なことです。しかし、それに終始するのでは、作家の創作行為を後追いするだけのことになり、結局は紹介にすぎず、批評になりえていないということになりかねません。批評となるためには、作り手の意識していないような事柄にも注目し、新たな作家像を作り上げる必要があります。そういう意味では、批評行為においても、無意識は必要となってくるのです。
 

騎馬君のコメントに関して

 投稿者:hashimoto  投稿日:2009年 6月26日(金)14時42分28秒
返信・引用
  失礼します。

まず、騎馬君の意見に基本的に賛成です。

なかなか他人の発表に対して批判的な意見を述べるのは勇気が要ります。
しかも真剣に考えていないとできないことです。すごい。

前川君も自分の正直な返事を返しているのが良いと思います。

僕も前川君の主張を聞いていて谷先生と同じような感想を持ちました。

三人の発表を聞いていると、それぞれの無意識に対する捉え方の軸が異なっていたので正直混乱してしまいました。
ひとつ下で前田君も「技法などに着目して比較すれば…」と書かれていますが、まさにそのとおりで発表の内容にある程度秩序を持たせるというか、軸を定めておかないと結局作品紹介のように受け取られてしまいかねません。発表者本人にはまったくそのつもりはないのに、です。

高中さんの発表についても、(僕の知能が追いついていないのでしょうが)腑に落ちないところがたくさんありました。というか、ただ聞いているだけで賛成も反対もできない状態に陥ってしまいました。
皆さん映画に関心があるようで面白い話をたくさん聞けましたが、なんとも意見を言うのが難しいと感じたのが本音です。できれば聞き手が意見を言うということを想定して、発表をしていただけるともっと良いと思います。

騎馬君が「今までの発表の中で感じたのは、無意識を、各個人の認識の違いにつなげてしまったり、認識において作用しているものである、としてしまうのはちょっと安直じゃないかな。ということです。そんなこと言ってしまうと、結局突き詰めれば人と自分は違うんだし、自分はこれが好きだから、好き。自分はこれを芸術だと思うから、これは芸術なんだ。みたいな、無法地帯に陥ってしまうでしょう。「りんご」は「りんご」として社会の中で認識を共有されています。それと同じように、「芸術」というものにも、社会の中での認識の共有というものは必ずあるでしょう。そういった意味で、せっかく作品を取り上げるのであれば、どの作品であっても結論付けられるような抽象的な結論ではなく、その作品の独自性とか、創作者の意図や無意識のほうを掘り下げていただけるといいような気がしました。


と書いていますが、僕もこの意見に大賛成です。
というか騎馬君と一緒に発表の準備をする最初の時点で考えたことそのものです(二人で発表形式や内容などについて意見を交わし、理解が深められたという点ではグループ発表にして良かったと思います。騎馬君には散々迷惑をかけてしまいましたが…)。

シュルレアリストはある種統一性のない集団でしたが、それでも「集団」であったことは間違いありません。そして彼らはお互いの主張を(さまざまな方法で)肯定したり、否定したりしたわけですから、僕たちも「無意識なんて人それぞれじゃん」という方向にいくことだけは避けたほうが良いと思います。そういった意味では、特定の映像作品を語るにしても、シュルレアリスム(あるいはシュルレアリスト)にひきつけて話をすると良いのかな思います。

なんかごちゃごちゃとした稚拙な文章になってしまいましたが、つまり「聞き手が賛成・反対できるように発表を(秩序立てて)つくってくれたらうれしいです」ということです。



余談ですが…映像は単純な「視覚芸術」なのでしょうか?
特に『イージー・ライダー』のLSDの場面で映画における「音」のイメージ(?)を強く感じました。

失礼しました。
 

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